ナツメルート後日談:淡い音色
夏の終わりの午後、ナツメとマリアは再びナツメの実家を訪れていた。
玄関をくぐると、ふわりと甘い香りがする。
「ちょうどいいタイミングだったわね」
ナツメの母が嬉しそうに笑う。
「親戚から桃がたくさん届いたの。二人にも食べてほしくて」
食卓には、皮をむいた桃が山のように並んでいた。
瑞々しくて、光を含んでいるようだった。
マリアは小さく目を瞬く。
「……すごい」
「美味しいわよ、今年のは特に」
ナツメの姉ヨツバが楽しそうに言う。
ナツメは隣で無言のまま、一つだけ桃を口に運んだ。
「おお、……甘いな」
「でしょ?」
和やかな時間が流れる。
マリアの指先のこわばりがほどけていく。
食後、リビングに移動すると、広い部屋の一角に立派なピアノが置かれていた。
艶のある黒い塗装。
長い年月を感じさせるのに、手入れは行き届いている。
「あ、そういえば」
ヨツバが思い出したように言う。
「このピアノ、まだ残ってるのよね」
ナツメがちらりと見る。
「まだあるのか」
「当たり前でしょ。お父さんが大事にしてるんだから」
父は静かに頷く。
「ナツメ、昔よく弾いていたろう」
その言葉に、ナツメは少しだけ視線を逸らした。
「……昔な」
兄のミツキがにやりと笑う。
「せっかくだし弾いてやれよ。マリアさんもいるし」
「いや、ブランクあるし!」
「いいじゃないの。マリアちゃんに聴かせてあげなさい」
ヨツバも乗ってくる。
完全に逃げ場がない。
ナツメは小さく息を吐いた。
「……上手くはないぞ」
「大丈夫、別に誰も審査しないわよ」
ピアノの前に座るナツメは、少しだけ背筋を正した。
鍵盤に触れる前に、一瞬だけマリアを見る。
「本当に期待すんなよ?」
「しない」
マリアは素直に答える。
その返事に、ナツメは小さく息を吐いてから鍵盤に手を置いた。
最初の音は、少しだけ探るようだった。
ぽつり、と落ちる。
次の音が続くと、それはゆっくりと流れになっていく。
マリアは息を止めて聴いていた。
ナツメの指先が鍵盤を滑るたびに、空気が静かに変わっていく。
途中で指先が遅れて、音がずれる。
それでもナツメは焦ることなく弾き続けた。
マリアは気づけば、目を閉じていた。
ずっと騒がしかった心が、少しずつ凪いでいく。
音が終わる。
最後の一音が余韻を残して消えると、部屋はしばらく静かだった。
「……やっぱブランクあるな」
その言葉に、ヨツバがすぐに笑う。
「いや、ちゃんと弾けてたよ」
「昔より柔らかい音になってるんじゃないか?」
ミツキも静かに言う。
「で、どうだった?」
マリアは少しだけ間を置いてから、ナツメに答えた。
「……ちゃんと、届いたよ」
「昔は知らないけど」
「うん」
「今のナツメの音、好き」
ナツメは一瞬だけ固まった。
それから、困ったように笑う。
「……そりゃ光栄だな」
マリアは自分でも何がそんなに照れくさいのかわからないまま、小さく瞬きをした。
室内にはまだ桃の甘い香りが残っている。
ナツメはピアノの横に立ったまま、しばらく黙っていた。
そして何も言わずに、ただ小さく頷いた。




