ナツメルート後日談:あなたと過ごす日々
二人の朝は静かに始まる。
ナツメが先に起きて、キッチンでコーヒーを入れる音だけが部屋に落ちている。
社内SEという仕事は、派手ではない代わりに、生活リズムが読めない日もある。
障害対応が入れば夜中に呼び出されることもあるし、逆に何もなければ早く帰れる日もある。
それでもナツメは、できるだけ「マリアの通院日」と「体調の揺れやすい時間」を基準に予定を組む癖がついていた。
「……おはよう」
リビングにマリアが現れる。
少し眠そうで、髪はまだ整っていない。
「おはよう。今日は調子どう」
「悪くはない」
その言葉を聞くたびに、ナツメは呼吸が楽になる。
ここ数年で、それは一番聞きたい返事になっていた。
トーストとスープを並べると、マリアはゆっくり食べ始める。
ナツメの出勤時間は日によって違う。
その日は午前から本社対応がある日だった。
「今日は定時で帰るから」
「……本当に?」
「たぶん。障害なければ」
マリアは少しだけ目を細める。
「……“たぶん”ばっかり」
「あー、職業柄だな」
ナツメはジャケットを羽織りながら苦笑する。
玄関まで見送りに来たマリアは、靴を履くナツメをじっと見ていた。
「……いってらっしゃい」
「いってくる」
昼過ぎ。
マリアは一人で本を読んでいた。
昔より集中できる時間が増えた。
ただふとした瞬間に、胸の奥がざわつくこともある。
そういうときは、無理に考えないようにしている。
今は「待てる場所」があるからだ。
スマホが鳴る。
『社内ネットワーク障害。少し遅くなる』
ナツメからだった。
マリアは短く返信する。
『わかった』
それだけ。
昔なら、それだけで不安になっていた。
今は違う。
戻ってくることを知っているから、ちゃんと待つことができる。
夜、ナツメが帰ってくると、部屋の明かりがまだついていた。
「ただいま。まだ起きてたか」
「うん、おかえり」
マリアはソファに座ったまま、眠そうな顔を上げる。
ナツメは少し疲れた顔をしていたが、目は穏やかだった。
「また何か、トラブルだったの?」
「ああ、まあ、想定内だけど」
ジャケットを脱ぎながら、ナツメは小さく息を吐く。
それからマリアを見る。
「今日はどうだった」
「普通」
「いい日じゃん」
ナツメは笑った。
夕食後。
マリアはソファで膝を抱えていた。
ナツメは隣に座っている。
けれど距離は、いつも通り少しだけ空いていた。
「ナツメ」
「ん」
「仕事、しんどくない?」
ナツメは少し考えてから答える。
「しんどい時は、あるかも」
「でも?」
「マリアの生活が安定するなら、それでいいかなって」
マリアは視線を落とす。
「……私のせい?」
「いや、違くて」
「……ちゃんと、自分で選んでる。大丈夫」
短い沈黙。
「帰る場所があるから、平気」
マリアは何も言えなかった。
夜が深くなる。
マリアは布団に入る前、小さく言った。
「ねえナツメ」
「ん?」
「明日も……帰ってくる?」
ナツメは一瞬だけ驚いた顔をする。
そしてすぐ、穏やかに笑った。
「当たり前だろ」
その答えを聞いて、マリアはようやく布団に潜る。
戻ってくる人がいる日常を、信じられる。
隣の部屋で電気が消える音がする。
ナツメがいる気配だけが、夜の中に残る。
その気配を感じながら、マリアは静かに目を閉じた。




