プロローグ:重すぎる愛8
ページをめくる音だけが、部屋に残っていた。
カーテンはずっと閉じたまま。
時間は曖昧で、昼も夜も区別がつかない。
けれどマリアの指だけは、かろうじて動いている。
紙の上の文字を追いかけて、物語の中へ沈む。
現実よりも静かで、現実よりも優しい場所へ。
(ここなら)
登場人物たちは距離を守る。
必要な言葉だけを交わして、物語は終わる。
それが、どうしようもなく心地よかった。
「……マリア?」
現実の声が、突然割り込む。
ページをめくる手が、わずかに止まる。
「まだ読んでるの」
ユリカが部屋に入ってくるのが、音だけでわかる。
「ご飯、食べてないでしょ」
聞こえているはずなのに、マリアは答えない。
その沈黙に、ユリカは困り果てた声を出す。
「……無理しないで」
声は柔らかく、以前よりも距離を保っている。
あの日のことを、忘れていないから。
それでも、隠しきれない執着が滲んでいた。
「……大丈夫」
それだけを、短く答える。
「……何読んでるの?」
マリアは本に視線を落としたまま、微動だにしない。
「面白い?」
ページをめくる音だけが返ってくる。
ユリカは小さくため息をついた。
「……返事くらい、してよ」
そう言って、少しだけマリアから離れる。
部屋から出ていくことはしない。
マリアは再び、文字の海に沈む。
本を開いたまま、時間だけが進んでいく。
食事の皿はいつの間にか冷めていた。
気づいたときには、それすらどうでもよかった。
ただ文字を追い続ける。
現実の輪郭を忘れるために。
手元が暗くなり、文字が滲む。
電気をつけようとして立ち上がりかけた瞬間、身体が傾いた。
身体は正直だった。
もう一度立ち上がろうとしても、腕に力が入らない。
目眩がして、頭が揺れた。
それでも心だけは、少しだけ軽い。
手元さえ見えにくい薄闇の中で、ユリカはその様子を見ていた。
日に日に痩せていく身体。
自力で立ち上がることもできないマリアを。
見かねて部屋の電気をつける。
急に明るくなった室内に、マリアは何も反応しなかった。
「……ご飯、少しでもいいから食べて」
冷めた皿を下げて、湯気の立つ夕食を差し出しても、マリアは首を振るだけだった。
「……あとで」
その“あと”が来ないことを、ユリカは知っている。
「……そっか」
言いたい言葉を飲み込んで、引き下がる。
無理に食べさせることもできるが、それはしない。
ユリカはまた、少し離れた場所に静かに座る。
本を読むマリアを、見つめ続ける。
(ごめん)
また、本の中に逃げてる。
私がいると苦しいのかな。
距離を詰めすぎたのかもしれない。
だから今、マリアは本ばかり読んでいる。
ユリカは目を伏せる。
(でも)
マリアを見つめる視線が、細くなる。
(こんなに弱ってる)
触れなくてもわかるほど、痩せ細った腕。
青白い肌、頼りない呼吸。
(一人じゃ生きられない)
この部屋で動いているのは、自分だけだった。
(やっぱり私がいないと、だめなんだ)
その感覚が、胸の奥に広がる。
本のページがめくられるたび、ユリカの声は遠くなる。
それでも今、この部屋には自分しかいない。
「……ねえ」
小さく声をかけるが、マリアには届かない。
それでもユリカは気にせずに続ける。
「ちゃんと、戻ってきてね」
(戻ってきたら、また私のそばにいる)
そう思っているから、何も心配はいらない。
マリアがページをめくる音だけが、不規則に響き続けた。
その音だけが、まだ現実と繋がっていた。




