プロローグ:重すぎる愛7
その日は、朝から甘い匂いがしていた。
ユリカは布団の中で目を開けて、鼻をひくつかせる。
いつもは静かな家の、小さな変化。
(……いい匂いがする)
身体を起こして、そっと部屋を出る。
キッチンのほうから、かすかな音がする。
こっそり覗くと、マリアがいた。
エプロンをつけて、無言で何かを混ぜている。
いつもの無表情に近い顔だけど、どこか少しだけ違う気がする。
「……マリア、何してるの?」
囁くように呼ぶと、マリアの手が止まる。
ゆっくり振り向いて、まだパジャマ姿のユリカを見る。
「……おはよう、ユリカ」
「うん、おはよう」
それだけの会話で、朝からユリカの機嫌がよくなる。
「顔洗って、着替えて」
「あと歯みがきもね!」
ユリカは元気に洗面所へと向かう。
顔を洗い、歯みがきをして、うさぎと花柄のパジャマを脱いで着替える。
急いで着替えようとして、靴下を裏表逆にはいてしまった。
焦って履き直したときには、キッチンから何かが焼けるいい匂いがしていた。
学校の準備を終えると、ユリカはキッチンへと駆け足で向かう。
テーブルの上には、小麦粉や砂糖、生クリーム。
普段あまり見ないものが並んでいる。
「なに作ってるの?」
マリアは答えるか迷うように視線を落として、それから言った。
「……ケーキ」
「ケーキ!?」
思わず声が大きくなる。
「しー……」
マリアが人差し指を自分の口元に当てる仕草をする。
ユリカは慌てて口を押さえる。
でも、目はきらきらしていた。
「なんでケーキ?」
「……今日は、ユリカの誕生日でしょ」
マリアは泡立て器を動かしながら、ぶっきらぼうに言った。
ちゃんと覚えてくれてた。
ユリカはその一言で、胸がいっぱいになる。
「ほんとに!?」
「……うん」
ユリカはその場でぴょんと跳ねる。
「すごい!手作りケーキ!初めて!」
マリアは少しだけ目を細める。
困ったような、でも完全には嫌じゃないような顔。
今までの誕生日だって、マリアはケーキを用意してくれた。
でもそれはケーキ屋さんのものだったり、ホットケーキに生クリームを添えたものだった。
前にマリアは、スポンジからケーキを作るのはたいへんだと言っていた。
オーブンのそばに置かれたスポンジケーキは、少しだけ歪んでいる。
失敗したのかもしれない。
それでも、ユリカは嬉しかった。
マリアが自分のためにケーキを作ってくれる。
それだけで、十分だったから。
「まだ完成してないから」
「見たい!」
「だめ」
きっぱり言われて、ユリカは「えー」と口を尖らせる。
「あとでね」
その一言に、名残り惜しいけれど素直に頷く。
「朝ごはん食べないと、遅刻するよ」
「はあい」
大人しく朝ごはんを食べて、学校へ行く。
待つ時間すら、楽しかった。
その日は小学校でもずっとそわそわしていた。
「ユリカちゃん、誕生日おめでとう!」
「わあ、みんなありがとう」
休み時間、友だちが誕生日を祝ってくれる。
でもその言葉は、マリアから一番に貰いたかった。
お礼を言いながらも、気持ちはもう家に飛んでいた。
授業の内容なんて、ほとんど頭に入らない。
(ケーキ……)
(マリアが作ってくれたケーキ……)
家に帰る足も、自然と早くなる。
息を弾ませて玄関を開けると、またあの甘い匂い。
「ただいま!」
「……おかえり」
マリアの声が、いつもより少しだけ柔らかい気がした。
テーブルの上には、ユリカのお気に入りの黄色い皿。
その上に――
少し形がいびつな、小さなケーキがのっている。
「……!」
ユリカは言葉を失う。
お店のケーキみたいに完璧じゃない。
クリームも偏っているし、いちごも何個かずれて置かれている。
それでもユリカは胸の奥が熱くなった。
(これ、私のためにマリアが……)
「……食べていいよ」
その一言で、もう限界だった。
「ありがとう!!」
勢いよく駆け寄る。
でも、途中で止まる。
(触ったら、だめ)
ちゃんと覚えている。
だから、少しだけ距離を保って、笑う。
「すごい……すごいよ、マリア……!」
マリアは照れたように視線を逸らす。
「……普通」
「普通じゃない!」
「こんなの初めて!」
嬉しくて、フォークを持つ手が震える。
一口だけ、大事に口にしてみる。
少し砂糖を入れすぎたのか、生クリームはとても甘かった。
でも、優しい味がした。
「おいしい……」
自然と涙がにじむ。
「ほんとにおいしい……」
マリアはその様子を、静かに見ていた。
「……ユリカ」
「誕生日、おめでとう」
ほんの少しだけ口角を上げて、その言葉を贈る。
「ありがとうマリア!ありがとう……!」
友だちに同じ言葉をもらったときとは、全く違う喜びが湧き上がる。
「ねえ、マリア」
ユリカが期待を込めてマリアを見つめる。
「来年も作ってくれる?」
マリアは少し困った顔をした。
「……気が向いたら、ね」
曖昧な答えを返す。
でも、ユリカはそれで満足する。
「じゃあ、来年も楽しみにする!」
その笑顔は、まっすぐだった。
マリアは諦めたように小さく息をつく。
人は嫌いだ、関わりたくない。
けれど、目の前でケーキを食べて笑う子どもだけは。
「……もう一個あるけど、食べる?」
そう言ってもいいと思えた。
「いいの!?」
明るい声が部屋に広がる。
その日だけは、静かな家の中にやわらかい温度があった。
ユリカは何度も、マリアが作ったケーキを見て喜んでいた。
その日のことを、ずっと忘れないと思った。




