プロローグ:重すぎる愛6
白い光の中で、マリアは息をしていた。
静かな病室。
遠くで誰かの足音。
隣には、穏やかな声の男。
「無理しなくていい」
いつの間にか敬語ではなくなっていた。
その方がマリアには妙にしっくりきた。
男性の言葉が、やわらかく胸に落ちていく。
(こういう人が、いればよかった)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
歳の近い兄のようで。
けれど、血の繋がりはなくて。
ただ、否定せずにいてくれる誰か。
「マリア」
ぶっきらぼうに名前を呼ばれる。
それだけで、少しだけ自分の輪郭がはっきりする。
――その瞬間。
視界が歪む。
男性の声が遠ざかる。
名前を呼ばれるのに、返事ができない。
うまく言葉が聞き取れない。
病室が白く溶ける。
「……っ」
身体が重い、息が詰まる。
目を開けると、そこはいつもの部屋だった。
閉じたカーテン。
薄暗い空気。
布団の周りには空のペットボトルが散らばっている。
夢だった、と理解するまでに、少し時間がかかった。
「……ゆめ」
かすれた声で、現実を受け入れる。
胸の奥に残っていた温度が、急速に冷えていく。
気づいてしまった。
あの男は、現実にはいない。
自分が勝手に作った、つぎはぎの理想だった。
あの声も、距離も、現実には存在しない。
「……ばかみたい」
小さく自嘲すると、目の奥が熱くなった。
散らばったペットボトルをかき分けて、キッチンへとたどり着く。
ぬるい水道水をコップに注いで、一気に飲みほす。
コップを傾けすぎたせいで、小さな口の端から水がこぼれた。
キッチンの床まで落ちた水滴を眺めて、ふとリビングに視線を移す。
そのとき、テーブルの上に置かれた紙が目に入った。
見慣れない書類。
けれど、どこかで見た形式。
マリアは恐る恐るリビングへと移動する。
指先の震えが止まらない。
「……なに、これ」
読み進めるうちに、理解が追いつく。
婚姻届。
名前。
記入欄。
そして――
すでにユリカによって埋められた部分。
「……っ」
マリアは息をするのを忘れる。
その瞬間、玄関の鍵が開く音。
「マリア、起きてる?」
ユリカの声は普段と変わらない。
足音が近づいてくる。
「ちょうどよかった、それ――」
言い終わる前に、強引に声を割り込ませる。
「これ、なに」
ユリカが戸惑うように足を止める。
「……見ちゃったんだ」
聞き分けのない子どもを見るように笑う。
「なに、……これ?」
もう一度問いかけるが、今度は怯えが混じる。
「何って、婚姻届だけど」
ユリカはあっさりと答える。
「なんで」
「なんでって……」
なぜ聞かれるのか心底わからない、というように首をかしげる。
ユリカの長い黒髪が闇のように広がった。
「一緒にいるなら、必要でしょ?」
「……勝手に……」
「やだなあ、まだ出してないよ」
あくまでも軽く言う。
「これから出そうと思ってた」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
「やめて」
声が、震える。
「それは――」
息がうまく吸えなくて、言葉が途切れ途切れになる。
「それは……だめ……」
ユリカの表情が、わずかに曇る。
「え、なんで?」
「……なんでって……」
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
恐ろしい想像が脳内を駆け巡る。
ユリカが隣にいる、逃げ場がない、固定された未来。
「……やだ……」
発作的に、拒絶していた。
「やだ……無理……」
マリアはキッチンまで逃げるように後ずさる。
それを追うように、ユリカが一歩ずつ近づく。
その度に背後の闇が揺れていた。
「来ないで!!」
叫びに近い声が空気を凍らせる。
マリアの目から、涙があふれる。
「結婚なんて……」
息が乱れる。
それは、ほとんど子どものような拒絶だった。
「そんなの……するくらいなら……」
苦しくて喉が詰まる。
「今すぐ……消えたい……」
長い沈黙が部屋を満たす。
ユリカは動かず、初めて見る表情をしていた。
「……そこまで、嫌なの?」
ようやく出た声は、ひび割れていた。
マリアは浅い呼吸を繰り返して、ただ涙を流し続ける。
「……そっか」
ユリカはマリアを見つめたまま、視線に熱をのせる。
「それでも、一緒にいたい」
「……結婚、しなくてもいい」
無理矢理感情を抑えたような声で、淡々と喋り続ける。
「でも、離れるのだけは無理」
マリアの呼吸が止まりそうになる。
ユリカに反省した様子はなかった。
「……どうして」
やっとのことで絞り出した声で問う。
「好きだから」
それだけだった。
マリアはその場に座り込む。
足元が濡れていた。
さっき自分でこぼした水だと、思い出す。
夢の中の男が蘇る。
優しかった。
距離を守ってくれた。
何も奪わなかった。
(あれは)
現実には、存在しない。
しょせん自分が作った、理想の“誰か”でしかない。
「……いない……」
止まらない涙が、胸元や膝の上にまで落ちていく。
ここにはいない。
これからも、たぶん現れない。
代わりにいるのは――
逃がさないと決めている人だけだった。
ユリカはそっと紙を手に取る。
ただ、引き出しにしまう動作。
その紙切れの端が折れているのが、何故か異常に目についてしまう。
「……今はやめとくね」
「でも、いつか」
続きは言わなかった。
マリアは座り込んだまま動けない。
涙も、呼吸も、思考も、すべてがぐちゃぐちゃに混ざる。
引き出しの中にしまわれた紙の存在だけが、消えなかった。




