プロローグ:重すぎる愛5
光が、痛かった。
病室の白い天井は、マリアにとってあまりにも明るすぎた。
点滴の滴る音だけが、一定のリズムで現実を刻んでいる。
――どうして、こんなところにいるんだっけ。
何かを考えるのも億劫で、思考はすぐに沈む。
身体の感覚が薄いのに、どこにも力が入らない。
布団の中でさえ、うまく息ができなかった。
「マリア」
聞き慣れた声がする。
顔を横に向けると、ユリカがいた。
「ぼうっとしてるけど、大丈夫?」
優しい声でマリアに声をかける。
整った眉は心配そうに下げられていた。
非の打ち所のない“心配している家族”の姿。
「……」
ユリカから視線を逸らして、点滴が落ちる様子を眺める。
「無理しなくていいよ」
ユリカは自然な動作で、頬に触れそうになって――
ほんのわずか手を止める。
しかし、そのまま何もなかったように頬を撫でた。
「先生にも言われたでしょ、ちゃんと休まないとって」
マリアの頬を包むように撫でながら、柔らかく微笑む。
「私もいるんだから、安心して」
少しも安心できない、と心の中だけで反論する。
逃げ場を失ったあの日から、ずっと続いている言葉。
あの部屋の外では、ユリカは完璧だった。
「体調が悪くて……でも大丈夫です、私がいますから」
「結婚したばかりで、まだ不安にさせちゃうことも多くて」
周囲にそう説明し、誰も疑わない。
看護師も、医者も、自然にユリカへ話しかける。
「奥さん、こちらにサインお願いします」
それを訂正する気力は、もう残っていない。
マリアの意思だけが、点滴のように透明だった。
「それじゃ、また来るね」
名残惜しそうに頬から手が離れていく。
やっと離れた手の感触がまだ残っているようで、マリアはそっと息を吐く。
「はやく、ちゃんと良くなって」
結局マリアの言葉を一度も聞くことなく、ユリカは病室を出ていった。
静かになった室内で、マリアはゆっくりと目を閉じる。
(消えたい)
その感情だけが、以前よりもはっきりと残っていた。
「……あの」
不意に、誰かの声がした。
ゆっくりと目を開けて、声の主へと視線を向ける。
カーテンの向こう、隣のスペースから顔を出したのは、見知らぬ男性だった。
患者服を着ている。
同じ入院患者だろう。
「すみません、驚かせましたか?」
穏やかな声だった。
少し距離を取ったまま、無理に近づこうとはしない。
マリアは相変わらず口を開かない。
けれど、男性から視線を逸らさなかった。
「さっきの……大丈夫ですか?」
「……なにが」
干からびてかすれた声が、ようやく出る。
男性は少しだけ言葉を選ぶように間を置く。
「……何だか、ちょっと無理してるように見えたので」
その言葉に、マリアは微かに瞳を動かす。
無理している。
そんなことを、誰かに言われたのはいつぶりだろう。
「……別に」
条件反射のように否定する。
「そう、ですか」
男性は納得のいかない顔をしながらも、それ以上踏み込まなかった。
病室は点滴の落ちる音に支配される。
けれど、不思議と苦しくない。
「実は俺、入院生活長くて」
どこかで聞いたことがあるような声だった。
けれどそれが誰なのか、顔も名前も思い浮かばない。
「……まあ、慣れたくはないですけど」
マリアは男性を見つめたまま、その言葉を聞いている。
「何も考えたくない日って、誰にでもありますよね」
マリアの視線が、わずかに揺れる。
「……それは、毎日」
無意識に、言葉がこぼれてしまう。
男性は少しだけ笑った。
「それは、しんどいですね」
同情でも慰めでもない、ただの事実として受け止める声。
「まあ、無理に平気なふりしなくていいと思いますよ」
「ここにいる間くらい、何もしなくていいですし」
何もしなくていい。
その一言が、ゆっくりと染み込んでいく。
マリアは凪いだ気持ちで目を閉じる。
「……あなたの名前、聞いてもいいですか」
男性が静かに尋ねる。
「……マリア、です」
それは久しぶりに、自分の意思で差し出した言葉だった。
男性は確認するように「マリアさん」と小さく呟く。
「俺は――」
男性が名前を名乗る。
けれど次の瞬間には、もう思い出せなくなっていた。
ただその声の距離だけが、心地よかった。
病室の光は相変わらず白い。
けれどほんの少しだけ、痛みが和らいだ気がした。
廊下の向こうで、ユリカの笑い声がする。
点滴の音に耳を傾けながら、息苦しさがほんの少しだけ薄れていた。




