プロローグ:重すぎる愛4
外の世界では、朝が来ているはずだった。
けれどマリアの部屋には、光が届くことはない。
カーテンは閉じられている。
空気は淀み、時間は停滞したまま。
部屋の空気は少しぬるくて、前髪が額に貼りついていた。
軽いはずの身体は布団に重く沈み、床まで歪んでいるような気がした。
鈍い思考の中で、ただ一つだけ、はっきりしている感覚がある。
――消えたい。
それだけが、輪郭を持って浮かび続けている。
玄関にはいつもの気配がある。
「ただいま、マリア」
マリアは汗で少し湿った、しわだらけのシーツを眺める。
返事を待たずに、鍵が開く音がした。
「今日はね、ちょっと大事な話があるの」
場違いなくらい、妙に明るい声だった。
マリアはまだ、シーツのしわだけを眺めている。
「あのね、これ見て」
その声に、やっとマリアの視線がユリカに向けられた。
差し出されたのは、何かの書類だった。
役所の名前。
見慣れない形式。
マリアは焦点の合わない目でそれを見る。
「……なに、それ」
「婚姻届」
あまりにもあっさりとした言い方だった。
理解が遅れて、数秒の空白が生まれる。
「……え?」
ようやく出た声は、かすれていた。
「出してきた」
「……受理された」
まるで、買い物の報告のようにユリカは言う。
「……何を、言って」
「問題なかったって」
マリアの言葉が強制的に遮られる。
書類を見つめたまま、マリアは固まってしまう。
自分はいつ、こんなものを書いただろうか。
どうしても思い出せない。
理解が追いつかなくて、焦る気持ちだけが募る。
額から嫌な汗が流れて、湿ったシーツに吸い込まれていく。
「ちゃんと手続きしたから」
「……勝手に……」
「やだな、勝手じゃないよ?」
少しだけ、ユリカの声が強くなる。
「だってマリア、今まで一度も私を追い出さなかったよね」
追い出さなかった。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
額から流れる汗のように、マリアはただ流されていただけ。
「何も問題ないじゃない」
淡々と、事実を積み上げるように言う。
マリアは頭を動かそうとしたけれど、枕に深く埋まるだけだった。
「ちゃんと形にしただけだよ」
ユリカは安心させるような顔で微笑んでいた。
マリアの目尻を通る汗が、まるで涙のように落ちていく。
「……やめて」
やっと出た言葉は、小さかった。
「やめて、って何を?」
本気でわからない、という顔をするユリカ。
汗の通った左目が痛みを訴えて、マリアは思わず顔をしかめる。
「……だって、こんなの……」
それ以上の言葉が続かない。
視界の端に見えた婚姻届は、びっしりと文字で埋め尽くされていた。
「もしかして、嫌なの?」
もう何の意味も持たない言葉を、慈しむような形で問いかける。
「……い、嫌……」
マリアはかろうじてそれだけを口にした。
その瞬間、ほんの一瞬だけユリカの表情が揺れる。
けれど、それはすぐに戻ってしまう。
「そっか」
夕食の献立を確認するように、あっさりと頷く。
「でも、大丈夫だよ」
何が“大丈夫”なのか、マリアには何一つ理解できない。
婚姻届に指先を添えながら、ユリカは言う。
「何も変わらないから」
「今まで通りでいい」
ユリカの言葉を聞くたび、部屋が狭くなる気がした。
「必要以上に触らないし」
「無理なこともしない」
「ちゃんと世話もする」
まるで契約書を読むように、条件を並べる。
「だから――」
最後は少しだけ、間を置いて。
「マリアはここにいて」
ただの決定事項を伝えられる。
身体の輪郭が曖昧になっていく。
結婚。
その二文字だけが、重く沈んでいく。
口元は縫い止められたように動かなかった。
血のつながった家族ですら切り捨ててきたはずなのに。
唯一残した存在に、囲い込まれてしまう。
(どうして)
(苦しい)
呼吸が乱れて、思考が途切れがちになる。
うまく頭が働かない。
「これで安心だね」
マリアは何も言っていないのに、ユリカだけが満足そうに息をしていた。
「……ごめんね」
ふいにユリカが言う。
その言葉に、マリアの身体が一瞬だけ軽くなる。
「でも、これが一番の幸せだから」
マリアの身体が、再び布団に重く沈む。
未来が固定されてしまう現実に、押し潰されそうだった。
(消えたい)
その思いが、これまでよりもはっきりと形を持つ。
「ちゃんと生きててね」
ユリカの声が、逃げ道を塞ぐように落とされる。
「これからは私の奥さんなんだから」
消えたいのに、消えることすら許されない気がした。
いつの間にか部屋の隅には荷物が積まれていた。
ユリカは隣に座る。
肩が触れない程度の距離。
けれど、マリアが扉のほうへは行けない場所にいる。
外は晴れているのかもしれない。
けれどこの部屋には、何も入ってこない。
婚姻届は、テーブルに置かれたままだった。




