プロローグ:重すぎる愛3
部屋のカーテンは今日も閉じたままだった。
光が遮断されて、時間は曖昧になっていく。
マリアは布団の中で、ただ息をしていた。
それだけで一日が終わってしまうことも、よくあることだった。
時計の針が進む音だけが落ちる部屋に、人の気配。
チャイムも鳴らさず、扉の前に立つユリカがいた。
マリアは長い髪の隙間から、視線だけを扉に向ける。
「ただいま」
沈黙だけが返ってくる。
けれどユリカは気にしない。
静かに鍵を開けて、部屋に入る。
「……マリア、起きてる?」
布団の中からユリカを見つめる視線とぶつかる。
「よかった、起きてたんだね」
「……」
マリアは視線だけで頷くように、一度だけまばたきをした。
「あのさ、今日はちょっと話あるんだ」
キッチンに買ってきた食材を並べながら言う。
マリアはわずかに食材へと視線を動かして、続きを促す。
「学校でね、進路の話があって」
ユリカは淡々と続ける。
「この家から通えるところにしたから」
マリアの視線がユリカへと向けられる。
「……そう」
短く、それだけを返す。
(もう、決めたんだ)
働かない頭に、非難にも似た言葉が浮かぶ。
しかしそんな心の声は、どこにも届かないまま消える。
ユリカは穏やかに微笑む。
「この近くでさ、介護系の資格が取れるんだよね」
「ちょうどいい大学が見つかってよかったよ」
さらに一歩、踏み込む。
「……これで、引っ越さないで済む」
マリアの視線が、逃げるように玄関へ逸らされた。
「あとね」
ユリカは気にせず、軽い調子で続ける。
「バイトも、この辺で探してるよ」
マリアはユリカがもう視界に入らないように、キッチンから顔を背ける。
普段はうっとおしい髪が顔の周りに纏わりつくのが、今は少しだけ安心できた。
「……無理、しなくて、いい」
「無理じゃないよ」
マリアは髪を整えるふりをしながら、片手で軽く耳を塞ごうとする。
それでもユリカの言葉は止まらない。
「だって――」
「マリアのこと、私が見てないといけないし」
その言葉は、一見優しさの形をしている。
けれどマリアは、顔の周りに纏わりつく髪の毛のように、ユリカが絡みついて離れない気がしていた。
「私がいないと、困るでしょ?」
「ゴミ出しも、食材の管理も、全部私がしてるんだから」
マリアはもう、ユリカの顔を正面から見たくなかった。
視線で返事すらできない。
ユリカは既に、少しずつ外堀を埋めていた。
この近くの学校。
帰り道に寄れるバイト先。
泊まったままでも困らないように置かれた着替え。
少しずつ、“帰る場所”が曖昧になっていく。
「ねえ、マリア」
ユリカは空のペットボトルをどけて、布団のそばに腰を下ろす。
触れない距離を保ったまま。
「私、ずっとここにいてもいいよね?」
空のペットボトルが、音を立てて崩されていく。
床にぶつかる鈍い音から隠れるように、マリアは布団を頭まで覆う。
「……好きにすれば」
布団からくぐもった声が聞こえる。
投げるような答えだった。
それでもユリカは満たされる。
(私の存在が、そばにいてもいいって、許された)
ユリカはそう受け取った。
あの日の拒絶がまだ残っているから、ユリカは触れない。
けれど。
(もっと近づけたら)
(ここから、永遠に出ていかなければ)
頭の中では、何度も繰り返される妄想。
現実では決してできない甘い触れ合い。
マリアが自分だけを見て、愛してくれる世界。
逃げ場のない閉じた空間で、自分だけを見て笑ってくれる最愛の人。
(現実も、そうなったらいいのに)
「……ユリカ?」
布団から少しだけ頭を出したマリアの声が聞こえた。
様子を伺うような慎重な声音に、現実へ引き戻される。
「なに?マリア」
「……静か、だったから」
「考え事してただけ」
妄想に蓋をして、何事もなかったように微笑む。
誰が見ても完璧な、優等生の笑顔だった。
「ご飯、少し食べよう」
本当は怯えているのに、マリアはただ青い顔でゆっくりと身体を起こされる。
その無抵抗が、ユリカを安心させた。
同時に――
どこまでも踏み込めそうな錯覚を与える。
「これからも、ちゃんと生きてね」
「……」
「いなくなられると困るから」
ユリカはマリアの胸元を見ていた。
浅い呼吸だけを確かめるように。
顔色の悪さは、目に入っていなかった。
マリアの髪を、ユリカは丁寧に指でとかす。
絡まった髪をほどいて、栗色の髪を愛おしそうに撫でる。
マリアは固まったまま、身動きできない。
「……ご飯、食べる」
だから離して、と言外に伝える。
ユリカは名残惜しそうにしながら、ようやく指を離す。
それからはただ、スプーンを口に運んだ。
味はしないけれど、飲み込む作業を続けた。
そうしないと、またユリカが触れてくるんじゃないかと思って怖かった。
ユリカはその様子をじっと観察する。
(このままでいい)
そう思う自分と、
(ダメ、足りない、触りたい)
と囁く自分がいる。
マリアの部屋には、ユリカ用の歯ブラシが置かれたままだ。
いつでも泊まれるように、充電器も買い足してある。
夜、ユリカは当然のように帰らない。
「もう遅いし、泊まる」
ペットボトルがキッチンのごみ袋にまとめられる。
ユリカの布団分のスペースが確保されていく。
マリアは布団の中で震えていた。
(苦しい、苦しい、苦しい……)
布団の距離は、以前よりも保たれているはずだった。
それでもマリアは、呼吸が不規則になる。
ユリカは目を閉じる。
現実では何もしていない。
ただ、そばにいるだけ。
それなのに、自分がいないと生活できないマリアを見て。
(この人は、私からもう離れない)
そんな確信だけが、静かに育っていく。
マリアはユリカに背を向けて、目を閉じる。
(しんどい、苦しい……)
ユリカは、その寝息を確かめるみたいに見つめていた。
言葉にされないまま、二人の間で何かが固定されていく。
時計の針の音だけが、正しく時間を刻んでいた。




