プロローグ:重すぎる愛2
今が朝なのか夜なのか、もうマリアにはわからなかった。
閉じたカーテンの隙間から、夜明けの光だけが細く差し込んでいる。
時計は動いているはずなのに、時間だけが止まってしまったようだった。
布団の中で、息をしているだけで精一杯だった。
胸の奥に重たい石が沈んでいるようで、身体は鉛のように冷たいままだ。
――消えたい。
それは願いというより、習慣だった。
呼吸と同じくらい自然に浮かぶ思考。
シーツの上に波打つ、長い髪の感触が煩わしかった。
「……マリア」
扉の向こうから、静かな声。
マリアの返事を待たずに、扉は勝手に開く。
部屋に入ると、いつも通りの光景。
動かない身体。
返らない視線。
浅い呼吸。
「また、食べてないでしょ」
マリアは髪を纏めようとして失敗して、腕をだらりと布団に落とした。
ぽすん、気の抜けた音が返事のように響いた。
水を替える。
薬を並べる。
窓を少しだけ開ける。
この部屋に来たときは、毎回同じことの繰り返しだ。
それでもユリカは欠かさなかった。
「ほら、少しでいいから食べて」
マリアの身体を起こそうとして腕に触れる。
骨の感触がする、軽すぎる腕。
マリアはわずかに身じろぎしたが、抵抗はしない。
それだけで、ユリカは少し安心した。
「ご飯、お粥なら食べられそう?」
「……うん」
口元を綻ばせながら、甲斐甲斐しく世話をする。
「今日は半分も食べられたの、えらい」
「そんなえらいマリアに、聞きたいことがあるんだけど」
けれどその日、何かが少しだけ違った。
「……ねえ」
ユリカは、マリアの頬に触れそうなほど近づく。
長い黒髪が頬をかすめる。
「私のこと、どう思ってる?」
ぼんやりとした視線だけが、ゆっくりと向けられる。
「……ユリカは……」
声はいつもよりかすれていた。
「大事」
それは紛れもなく事実だった。
けれど――
ユリカが本当に欲しい言葉ではなかった。
「それだけ?」
思わず、更に距離を詰める。
額が軽くぶつかったとき、マリアの呼吸がわずかに乱れた。
けれどユリカは気づかない。
「私、マリアのこと――」
言いかけて、許可もなく無遠慮に触れた。
青白い頬に。
寝癖がついたままの髪に。
そして、かさついた唇に触れようとしたとき。
「……やめて」
小さな声だった。
拒絶というより、懇願に近い響きを伴っていた。
空気が止まる。
ユリカの手が、中途半端に伸ばされたまま行き場を失う。
マリアは青褪めながら、ゆっくりと顔を背ける。
「……ごめん……ちょっと……無理」
責める色はない。
ただ、マリアは既に我慢の限界だった。
ようやく理解する。
どうして気づかなかったんだろう。
マリアはいつだって苦しそうだったのに。
ずっと、すぐ近くでそれを見ていたのに。
「……私……」
声が震える。
「マリアの世話が、したくて」
「でも、マリアのこと、考えてなかった……?」
それ以上、何も言えなかった。
ユリカはゆっくりと手を引いた。
足が縺れて転びそうになりながら、触れない距離まで、やっと下がる。
それだけで、こんなにも遠いのかと思う。
離れた距離を埋めるように、視線に熱を込めた。
(それでも)
(マリアは、私がいないと生きられない)
恋人になれなくてもいい。
触れられなくてもいい。
ただ、そばにいられるなら。
それだけでお互い生きていけるはず。
そう思った。
思ったはずだった。
家族でも、恋人でもない。
名前のない関係だけが、ユリカを縛っていた。
触れようとして伸ばした手が、まだマリアを求めている。
数日後。
それでもユリカは部屋に通い続けていた。
けれど以前とは違う、必要以上に近づかない。
ただ世話をするときだけ、マリアに触れることができた。
「……ユリカ」
その日は珍しく、マリアのほうから声をかけた。
「……いつも、ありがとう」
それは家族への言葉だった。
恋人へ向けるような、愛情ではない。
けれど、確かな温度があった。
ユリカはなんとか口角を上げて微笑む。
「どういたしまして」
それでいい、と言い聞かせるように。
けれど時が経てば、心はあっさりと崩れていく。
マリアに触れたい。
抱き締めたい。
自分の全てを、受け入れてほしい。
けれど、またあんな顔をさせるのが怖かった。
指先が震える。
伸ばしかけた手を、何度も引っ込める。
それでも、諦めることなどできなかった。
マリアは相変わらず、消えたいと願い続けている。
ユリカは相変わらず、そばにいる。
触れない優しさと、触れたい衝動の間で、ユリカは少しずつ歪んでいく。
(マリアを世話していれば、触れられる)
(でもそれだけじゃ、足りないの)
マリアは気づかない、ユリカが歪む音に。
ユリカも気づかない。
それでも離れない自分が、既に何もかも手遅れであることに。
かつてユリカが幼い頃存在していた、マリアと二人で暮らしていたときの、優しい箱庭の幸せはもう訪れない。
もう、昔みたいには眠れなかった。
部屋は静かだ。
雨も降っていない。
閉じた部屋には、時計の針の進む音だけが響いていた。




