プロローグ:重すぎる愛1
昨夜から降り続ける雨音が、マリアの世界を優しく包んでいた。
外界との境界線が曖昧になるその音は、彼女にわずかな安らぎを与えてくれた。
「……また、来てる」
マリアは俯いて、しわの寄ったシーツを眺めていた。
ゆるく波打つ栗色の髪が顔を隠している。
玄関の向こうに立つ存在に、扉が開かれる前からわかる。
ユリカだ。
チャイムは鳴らさない。
ノックもしない。
いつも当然という顔をして訪れては、合鍵を使って入ってくる。
ガチャリと音がして扉が開かれると、高校生の少女が現れる。
整った顔立ち、すらりと伸びた背筋。
真っ直ぐな黒い長髪が、動く度にさらりと揺れる。
「ただいま、入っていい?」
形式だけの言葉が投げられる。
マリアは返事すらできず、ただ力無くかすかに頭を下げた。
部屋の中は相変わらずだった。
最低限の家具、布団の上以外にはほとんど足の踏み場がないほどの雑然とした室内。
ユリカがいくら片付けても、通販で届く大量の荷物が増えて部屋を埋め尽くしてしまう。
住人であるマリアといえば、布団から一歩も動かない日がほとんどなので、片付ける必要を感じていないのもあるだろうが…片付けしようとしても、身体も心も追いつかないのだろう。
布団の上以外、最低限の家具やキッチンが使えるまでとりあえず片付けを終えると、ユリカはわざとらしくため息をつく。
「ちゃんと食べてる?」
「……まあまあ」
「嘘だね」
ユリカは再びため息をつき、冷蔵庫を開ける。
中身を確認し、手早くメモを取る。
マリアが一言をやっと口にする間に、ユリカはもう買い足す食材を決めていた。
ユリカがここへ来る理由を、マリアは知っていた。
知っていて、それでも拒めない。
幼い頃、マリアに世話をされていたはずの子どもは、いつの間にか役割を逆転させていた。
まだこのアパートに越してきたばかりの頃。
玄関先で、幼いユリカの泣き声だけが大きく響いていた。
「ねえ、ちょっと預かってくれない?」
姉の声は軽かった。
まるで不要な荷物を押し付けるように。
それまでマリアのことなんていないものとして扱ってきたくせに、ある日突然家にやってきた。
「私たちは夫婦共働きで忙しくて大変なのよ!」
「うつ病で仕事もできないとか言って、あんた暇な時間だけはあるんだから余裕でしょ」
そんな言葉で、無理矢理手渡されたのがユリカだ。
人間は嫌いだった。
それは変わらない。
ただ、泣きはらした目を見て放っておけなかった。
それだけで、マリアはユリカの手を取った。
最初、ユリカはよく癇癪を起こす騒がしい子どもだった。
物はすぐ壊すし突然大声で叫んだり、絵本やおもちゃはすぐに飽きて放り出す。
暴力的なことは苦手なのにと怯えたマリアだが、よく見ると理由に思い至った。
何かを壊したり放り出したあと、ユリカはいつもマリアの反応ではなく玄関を見ていた。
「ママ、来てくれるよね?」
そう聞く声だけが、妙に小さかった。
それからは根気強くユリカと向き合うようにした。
物を投げなくなるまで、三ヶ月かかった。
夜泣きに添い寝すること、半年。
「なんでママは迎えに来ないの!」
その問いだけは、大人しくなるまで消えなかった。
やっと勉強を教えられる程度に落ち着くまで、一年。
ユリカの髪を結んで、学校に送り出す。
帰宅したユリカを迎えて、夕飯まで毎日宿題を手伝う。
「今日ね、髪型ほめられた!可愛いねって」
「……今日は、編み込み、したもんね」
「うん!ありがとうマリア!」
「似合って、良かった」
「算数もね、先生に当てられたけどちゃんと答えられたよ」
「……すごいじゃん」
気づけば、通知表にはいつも良い数字が並んでいた。
「マリアが教えてくれたからだよ」
ユリカは、誇らしそうにそう言っていた。
ただ、その頃にはユリカは既に熱心にマリアをじっと見つめていた。
その視線の意味に、当時のマリアは気づいていなかった。
「ねえ」
キッチンから声がする。
「今日も眠れてないでしょ」
「……うん」
「薬は?」
「飲んだ」
「効いてないってことか」
ユリカは食器を洗いながら、ふと振り返る。
「もう!私がいないと、ダメなんだから」
笑いながら、子どもに言い聞かせるように言う。
「明日も、明後日も会わないと、私不安だよ」
その言葉に、マリアは何も言い返せなかった。
何を言っても、ユリカは受け取ってくれない気がした。
中学生になった頃、ユリカは引き取られた。
“本当の両親”の元へ。
「やっぱり自分の子どもは自分で育てないとね」
「こんなに優秀に育って、私たちの血ね」
笑顔で語るその姿を、ユリカは冷めた目で見ていた。
優秀だとわかった途端手のひらを返す親に、恥はないのかと言ってやりたかった。
でも、何か言えばマリアのせいにされるかもしれないと思うと、ぐっと我慢するしかなかった。
幼い頃は癇癪を起こしてでも会いたかったはずなのに、今ではどうして放っておいてくれないのかと、暗い気持ちばかり湧き上がる。
その日から、彼女の中で“親”という存在を完全に軽蔑するようになった。
「ねえ、マリア」
食事を並べながら、ユリカは何気なく言う。
「私、あの家好きじゃない」
「……そう」
「でも戻らないといけない。一応は、ね」
幼児だった頃ならともかく、高校生にもなれば、かつて育児放棄した親の元に帰るというのは嫌だろう。
思春期ならば特に複雑だろうとマリアは心の中で納得して、箸を持つ手を止めた。
「ここにいればいいのに」
引き留めるつもりはなかった。
それでも、言葉だけが先に出た。
ユリカは一瞬だけ目を見開き、そして――微笑んだ。
「それ、本気?」
部屋を雨音だけが支配する。
その笑顔に、マリアは言葉を失う。
また、ユリカに届くような返事を返せない。
ユリカにとって、マリアはずっと特別だ。
マリアが笑ってくれる、それだけで嬉しかった。
その笑顔が他の誰かに向けられると考えるだけで、嫌だった。
いつまでも、自分だけを見ていてほしい。
『ここにいればいいのに』
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
ユリカは食事中、ずっと上機嫌だった。
「マリアはさ」
食後、古びたソファに座る彼女の隣に腰を下ろす。
「どうして誰とも関わらないの?」
「必要ないから」
考えるまでもなく、そう答える。
「私も?」
その問いには、ほんのわずかな沈黙があった。
「……ユリカは、違う」
ユリカの口元がゆっくりゆるんだ。
マリアに恋愛感情がないことも、誰も必要としていないことも知っている。
それでもいい、そばにいられるなら。
マリアは知っている。
ユリカの感情が、普通ではないことを。
だが、マリアはそれを否定する言葉を持たない。
否定すれば、彼女は壊れるかもしれない。
いや――もう十分、歪んでいるのかもしれない。
夜が深まっても、ユリカは帰る素振りを見せない。
「……今日は泊まるの?」
「うん」
当然のように答える。
マリアは沈黙しか選べない。
布団を並べる距離が、少しずつ近くなっていることに、マリアは気づいていた。
けれど、今さら何を言えばいいのかわからなかった。
「ねえ、マリア」
暗闇の中で、ユリカの声。
「私は毎日、マリアのこと考えてるよ」
ユリカの視線が、煩わしいほどに強かった。
「学校でも、家にいても、ずっと」
「マリアは毎日、何考えてる?」
その問いに、マリアは落ち着かない瞼をゆっくり動かす。
「……消えたい、と思ってる」
ユリカはその言葉を聞いて、なぜか安心した。
自分がいなければ、この人は消えてしまうんだ。
だから――
「大丈夫だよ、マリア」
ユリカはそっと手を伸ばす。
「私がいるからね」
その手を、マリアは振り払わなかった。
拒むこともできずに、されるがまま。
それがどんな意味を持つのか考える余裕すら、もうなかった。
心も身体も、もう修復不可能なほどにぼろぼろだった。
伸ばされた手は、決してマリアを救いはしない。
ユリカが触れた指先だけ、自分のものではない気がした。
雨はまだ止むことなく、降り続いている。
楽しんでいただけましたら幸いです。
本作の略称は「触れ恋」(ふれこい)です。




