ナツメルート後日談:今はまだ、それだけで
夜更けのリビングには、時計の針の音だけが響いていた。
ナツメはソファに座り、読みかけの本を閉じる。
向かいではマリアがマグカップを両手で包んでいた。
温かいミルクティー。
けれどその指先は少しこわばっている。
オリエと会ってから数日。
マリアはできるだけ、いつも通りに振る舞っていた。
穏やかに笑うし、食事の量も戻った。
けれどナツメにはわかる。
少し無理をしている時の静けさだった。
「……マリア」
「ん」
「なんか考え込んでるだろ」
マリアはすぐには答えなかった。
湯気を見つめたまま、小さく息を吐く。
「……ナツメ」
「うん」
「私、ナツメと結婚したのに、何も返せてない気がする」
その声は、少しかすれていた。
ナツメは黙る。
マリアは視線を落としたまま続けた。
「ナツメは昔、ちゃんと恋人いたんだよね」
「……まあ」
「普通に触れたりとか、そういうこともしてたんだよね」
ナツメは慎重に言葉を選ぶ。
「してたことは、ある」
正直に答える。
マリアは小さく頷いた。
「そっか……」
その横顔が、苦しそうだった。
「マリア」
「ナツメばっかり、我慢してる気がする」
「そんなことない」
「でも……」
「ない」
ナツメははっきり言った。
「私は、マリアがそばにいてくれるだけで嬉しい」
「でも、それじゃ」
「……マリアの代わりは、いないんだ」
静かな言葉だった。
「夫婦だからって、みんな同じじゃない」
「触れ合い方なんて、そんなもん、人それぞれだろ」
「……」
「ゆっくりでいいんだよ」
その声を聞いていると、張り詰めていたものが少しずつ解けていく。
マリアは膝の上で軽く指を握った。
そして小さく呟く。
「……じゃあ」
「うん?」
「髪、撫でてほしい」
ナツメが固まった。
「……いいのか?」
「いいよ」
マリアは少しだけ視線を逸らす。
「……今はまだ、これくらいしか、無理だけど」
申し訳なさそうな声。
けれどナツメは、心底嬉しそうに笑った。
「ご褒美かと思った」
「大げさな」
「大げさじゃないって」
ナツメはゆっくり隣へ移動した。
「じゃあ、……触るぞ」
「うん」
許可を確認してから、そっと髪に触れる。
マリアの波打つような栗色の長い髪を、丁寧にすくう。
髪は細くて、柔らかいのがわかる。
指先でとかすように、優しく撫でる。
マリアは目を閉じたまま、何も言わなかった。
「……気持ちいいか?」
「……ん」
小さな返事。
その声があまりに穏やかで、ナツメの胸が熱くなる。
マリアは何も言わず、ただその手を受け入れていた。
そうしているうちに、マリアは少しだけおかしそうに笑った。
その笑顔を見ながら、ナツメはゆっくり髪を梳く。
部屋には時計の針が進む音が優しく響く。
マリアは目を閉じたまま、小さくナツメの肩にもたれた。
ナツメは驚いた。
けれど何も言わなかった。
ただ、逃がさないように少しだけ肩を寄せた。




