ナツメルート後日談:過去に触れる
休日の昼下がり、本屋には静かな音楽が流れていた。
マリアは文学コーナーの棚の前で、ゆっくり背表紙を眺めている。
紙の匂いが好きだった。
世界がうるさい日でも、本屋は少し安心できる。
「ナツメ、あっち見てくる」
「ん。無理すんなよ」
そう言ってナツメは別の棚へ向かった。
マリアは目当ての文庫本を見つけ、小さく息をつく。
その瞬間。
同じ本に、別の手が伸びてきた。
「あ……」
指先が触れそうになる。
女性は慌てて手を止めた。
「あ、すみません!」
接触はしなかった。
けれどマリアの身体は反射的にこわばっていた。
顔から血の気が引いていく。
「えっ、大丈夫ですか?」
女性が心配そうに覗き込む。
マリアは息を整えながら首を振った。
「……大丈夫、なんでもないです」
「でも顔色が……」
「本当に、大丈夫なので」
俯いたまま、本を抱えた指に力が入る。
そこへ。
「マリア?」
ナツメが戻ってきた。
その瞬間、女性の表情が変わる。
「……え?」
ナツメも固まった。
「うわ」
明らかに挙動不審だった。
「あんたまだ本読むんだ」
「……は?」
「昔、待ち合わせのたびに本屋いたじゃん」
マリアは二人を見比べる。
妙な空気。
それで少しだけ冷静になる。
「……知ってる人?」
ナツメが口を開くより早く、女性がふっと笑った。
「私はオリエ」
意味深な目でマリアを見る。
「ナツメのことは、よく知ってるわ」
ナツメが露骨に嫌そうな顔をした。
「おい」
「久しぶりじゃない。せっかくだし、カフェでもどう?」
「行かない」
「即答?」
「連れの体調悪いから」
ナツメはマリアの前に半歩立つ。
庇うみたいに。
オリエは肩を竦めた。
「相変わらずね」
「放っとけ」
「はいはい」
渋々引き下がりながら、オリエはマリアの横を通る。
「……へえ」
オリエは小さく笑った。
「今はこの人なんだ」
どこか納得したような顔でそう言うと、そのまま立ち去った。
沈黙。
マリアはしばらく呆然としていた。
ナツメは頭を抱える。
「……悪い」
「……うん」
「ちゃんと説明するから」
近くのカフェは静かだった。
ピアノジャズが店内に低く流れている。
カップが触れる音のほうがよく聞こえるくらいの音量だった。
マリアはメニューを開いたまま、しばらく閉じなかった。
甘いものを見ると、少しだけ安心する時がある。
ナツメはまずマリアを落ち着かせることを優先した。
「プリン食べる?」
「……食べる」
「ミルクティーも頼むか」
しばらくして、固めのプリンと甘いミルクティーが運ばれてくる。
マリアは小さな口でゆっくりプリンを食べた。
カラメルの苦味と甘さが舌に広がる。
少しずつ呼吸が落ち着いていく。
ナツメは向かい側で、ずっと様子を見ていた。
やがてマリアがスプーンを置く。
「……さっきの、オリエという人は」
ナツメが心底気まずそうな顔をした。
「あいつは……」
一度視線を落とす。
「私が昔、社会人になりたての頃付き合ってたやつ」
マリアは静かに聞いていた。
ナツメは誤魔化さなかった。
「私はずっと、マリアが好きだった」
その声は真っ直ぐだった。
「でも昔は、自分の気持ちから目を逸らしてた時期もあって」
ナツメは苦く笑う。
「そういう時、何人かと付き合ったことあったんだよ」
言い訳はしない。
過去を正当化もしない。
ただ事実として語る。
「……オリエのことは悪かった」
ナツメは低く言った。
「ちゃんと話してなかったせいで、マリアに嫌な思いさせた」
「……別に」
マリアはミルクティーを見つめる。
「ナツメの年齢考えたら、恋人いたって普通だよね」
「でも」
「理解はしてる」
そこまで言ってから、少し間を空ける。
「……ちなみに」
「うん」
「恋人は、女の人だけだった?」
ナツメは一瞬だけ迷った。
でもすぐ答える。
「……女の人もいたし、男の人と付き合ってた時期もある」
ナツメは少しだけ苦く笑った。
「誰かと一緒にいないと、駄目になりそうだったんだ」
「……そっか」
マリアはそう言ったきり、しばらく黙っていた。
ミルクティーの表面を見つめる。
それから突然メニューを開く。
「……パンケーキ」
「え?」
「生クリームたっぷりのやつ食べたい」
ナツメは目を瞬く。
マリアは普段かなり少食だ。
その違和感に、ナツメは嫌な予感がした。
ストレス。
不安。
精神的に負荷がかかると、時々マリアは食べ方がおかしくなる。
「……ごめん」
小さく謝る。
「気にしてないから」
でもその声は少し硬かった。
帰宅後も、マリアはいつもより多く食べていた。
夕飯も、デザートも。
ナツメは何も言わなかった。
夜、食後のお茶を淹れる。
湯気の立つカップを前にして、ようやくマリアがぽつりと呟いた。
「嫉妬しないわけじゃ、ないからね」
ナツメは息を止める。
「……マリア」
ナツメは慎重に手を伸ばしかける。
「私にはマリアだけだ」
確認するみたいに言う。
「不安にさせて、ごめん」
触れていいか迷うように、途中で動きを止める。
マリアはその手を見つめた。
そして小さく頷く。
許すみたいに。
それから、自分からナツメの左手に触れた。
薬指。
そこにある結婚指輪を、そっと撫でる。
ナツメが目を見開いた。
マリアから触れてくれる。
しかも指輪に。
「……今は私の奥さんだもんね」
マリアが小さく言う。
ナツメは泣きそうな顔で笑った。
「そうだよ」
マリアは静かに指輪を撫で続ける。
ナツメはそっと、マリアの指先に自分の手を重ねた。
マリアは逃げなかった。
窓の外では、暗くなった夜空に三日月が浮かんでいた。




