幕間:後悔
スバルは昔から、家族が嫌いだった。
機嫌次第で怒鳴る父。
世間体ばかり気にする母。
そして、自分が世界の中心だと思っている姉。
特にチズコが嫌いだった。
「私が一番かわいそう」
「私が一番大事にされるべき」
それを本気で信じている女だった。
家族全員が振り回されているのに、本人だけは悲劇のヒロインぶって被害者の顔をする。
けれど、もっと嫌だったのは両親だった。
スバルの成績が悪いとため息をつき、マリアの模試結果を見て笑う。
「さすが、マリアはすごいわねぇ」
「まったく、お前も少しは見習え」
優秀さを比較されるたび、姉のことを正面から見られなくなっていく。
マリアは何も言わなかった。
ただ静かに座っていた。
その態度が、スバルは見下されているようで嫌だった。
――優等生ぶって。
――どうせ、自分だけ特別だと思ってるんだろ。
だから高校に入ると、すぐバイトを始めた。
金を貯めた。
この家から出て、嫌いな家族と離れるために。
そうして高校卒業と同時に、一人暮らしを始めた。
狭いワンルーム、古いキッチン。
安い家賃と比例するように、壁の薄いアパート。
隣の部屋からは、昼間からいかがわしい男女の声が漏れてくる。
それでも、自由になれた。
スバルはそれだけで満足だった。
だから実家に残ったマリアを、どこかで見下していた。
――なんで出ていかないんだ。
――嫌なら逃げればいいのに。
――引きこもるくらいなら、一人暮らしくらいできるだろ。
馬鹿だな、ずっとそう思っていた。
三十歳半ばの冬、久しぶりに実家へ寄った時だった。
母が、いつもの軽い調子で愚痴をこぼした。
「あの子、ほんと困るわ」
マリアのことだった。
「いまだに働きもしないで、情けない」
スバルは聞き流していた。
けれど次の言葉で、思わず手が止まった。
「昔はちゃんと家にお金入れてくれてたのに」
「……は?」
母は当然みたいに言葉を続ける。
「お姉ちゃんの借金も大変だったし、あの頃は助かったのよぉ」
スバルは眉をひそめた。
「……それって、どれくらい?」
「え、全部よ?」
「全部?」
「給料全額、渡してくれたわ」
一瞬、意味がわからなかった。
「はあ?」
動揺して、思わず聞き返す。
母は不思議そうな顔をしていた。
「だって生活費とか返済とか、あなたの学費だって必要だったでしょ?」
「……じゃあマリア姉ちゃん、自分の金、なかったのか?」
「実家暮らしだったんだから、そんなの必要ないじゃない」
その瞬間、スバルの頭の中で、繋がったものがある。
バイト禁止の進学校。
就職してからは給料を全部実家へ。
自分みたいに金を貯めて家を出るなんて、最初からできなかったのかもしれない。
そこまで考えたところで、スバルは黙り込んだ。
マリアはいつも静かで、文句を言わないから。
勝手に「余裕がある側」だと思い込んでいた。
優等生で、親に愛されていて、自分より恵まれていると。
でも違った。
マリアが笑っているところを、最後にいつ見たのか思い出せなかった。
スバルは、急に吐き気みたいなものを覚えた。
自分が昔言った言葉を思い出したからだ。
『逃げればいいじゃん』
『どうせ、甘えてるだけだろ』
電話越しに、そう言ったことがある。
マリアはその時、少し黙ってから、
『……そうだね』
とだけ答えた。
反論しなかった。
スバルはきつく唇を噛んだ。
三十過ぎになって、ようやく理解した。
自分は勝手に、姉のほうが弱い人間だと思っていた。
その日の帰り道。
スバルは珍しく、マリアにメッセージを送った。
『……今度飯でも行く?』
数時間後。
返事は短かった。
『ごめん、まだ人と会うの苦手』
それだけだった。
でも最後に、小さく続いていた言葉がある。
『誘ってくれてありがとう』
スバルはスマホを見つめたまま、しばらく動けなかった。
昔の自分なら、その一文すら「感じ悪い」と思っていたかもしれない。
けれど今は違う。
スバルは駅前のベンチに座り、深く息を吐いた。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
ベンチの冷たさが、胸の痛みまで奪ってくれればいいのに。
スバルはふと、そう思った。




