幕間:放棄
姉のチズコが家に戻ってきた日のことを、マリアは今でもよく覚えていた。
春だった。
家の外では通学路を歩きながら新学期を喜ぶ、元気な声が聴こえた。
玄関のドアが開いて、母の悲鳴みたいな声が響く。
「チズコ!?」
温かい陽気のはずなのに、一気に家の空気が冷えていく。
姉は何事もなかったみたいな顔で立っていた。
長い髪を巻いて、派手なネイルをして、ブランド物のバッグを肩にかけている。
借金だけ残して男と逃げた人間には、とても見えなかった。
父は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「お前、どの面下げて帰ってきた!」
「うるさいなぁ」
チズコは靴を脱ぎながら、本当に面倒そうに眉をひそめた。
「別れたんだからしょうがないじゃん」
「しょうがないで済むか!」
「はいはい、ごめんって〜」
まるで悪びれていなかった。
マリアは廊下の奥から、その光景を見ていた。
姉は昔からこうだった。
誰に怒られても本気で反省しない。
自分が困っていなければ、それで全て終わりにしてしまう。
でも、その数日後。
家の空気は一変した。
「チズコさんとお付き合いしています」
そう言って頭を下げた男を見た瞬間、父と母の目の色が変わったからだ。
スーツ姿の、穏やかな男だった。
清潔感があって、話し方も柔らかい。
そして何より。
「勤務医をしています」と聞いた瞬間、母は急に背筋を伸ばした。
父は露骨に態度を変えた。
夕食の席では、今まで「恥さらし」扱いしていた娘に向かって笑顔を向ける。
「チズコ、お前もやるじゃないか」
「さすが私たちの娘、見る目があるのねえ」
チズコはその言葉を得意げな顔をして受け取っていた。
褒められて当然みたいに笑っていた。
そして、結婚前の顔合わせの日。
その男は、静かにこう言った。
「チズコさんの借金ですが」
マリアは箸を持つ手を止めた。
男は穏やかに微笑んだ。
「全額、僕が返済します」
その言葉を聴いた父が目を見開く。
母は驚きに息を呑む。
「夫になるんですから、それくらい当然です」
そう言われて、両親が完全に手のひらを返す。
「いやぁ、本当に誠実な方で、素晴らしい!」
「チズコ! よくやった!」
「いい男を捕まえたなぁ!」
さっきまで借金の話をしていたはずなのに。
もう誰も、そのことに触れなかった。
マリアは黙って白いご飯を見つめていた。
姉は昔と何も変わっていないはずなのに、両親は別人みたいに笑っていた。
マリアは行かなかったが、結婚式はたいそう豪華だったらしい。
派手な会場。
チズコらしく装飾の多い結婚式の写真を冷めた目で眺める。
親戚たちは「チズコちゃん、苦労したぶん幸せになったのね」と囁いたときく。
海外留学の嘘も、借金も、全部なかったことになった。
けれど。
短い幸せは、あっけなく崩れていった。
医者の夫は忙しかった。
夜中に呼び出されることもある。
休日に病院へ向かうこともある。
患者が最優先。
医師ならば、それは当然のことだった。
でも、結婚しても相変わらずわがままなチズコは耐えられなかった。
「また病院?」
「私より仕事が大事なんだ?」
「あなた、ほんと酷いわ!」
最初は夫も律儀に謝っていた。
「ごめん、急患なんだ」
「今度埋め合わせするから」
けれど、チズコは満足しない。
妹の成績が褒められれば不機嫌になる。
弟が体調を崩せば「私のほうがつらい」と怒る。
いつだって、世界の中心が自分でなければ嫌だった。
やがて夫は、家で笑わなくなってしまった。
会話も極端に減った。
チズコはそれを「冷たい」と責め続けた。
その頃、ユリカが生まれた。
病院で赤ん坊を抱く夫の顔を見た時だけ、チズコは少し安心した。
でも、それも長くは続かなかった。
夫はもうチズコのいる家に帰らなくなった。
スマホの通知を不自然に伏せる仕草。
洗面所にいつの間にか置かれた、知らない整髪料の存在。
浮気を問い詰めると、夫は面倒そうに言った。
「育児はきみの仕事だろ」
チズコは絶句した。
自分が欲しかったのは、“何不自由ない幸せな家庭”だった。
泣き続ける赤ん坊でも、終わらない家事でもない。
夜泣きのせいで眠れない夜でもない。
ユリカが泣くたび、チズコは苛立ってしかたなかった。
ミルクの匂いが嫌だった。
小さな手が、自分にしがみつく感覚すら鬱陶しくてたまらない。
そんなある日、両親から妹のマリアが一人暮らしを始めたと聞いたとき。
チズコは名案を思いついた。
――あの子に押し付ければいい。
頼めば断らない、都合のいい存在だった。
「あのさぁ、ユリカのことなんだけど」
マリアはずっと黙っていた。
姉が押しかけてきたのは、精神に障害があると認められて、ようやく一人暮らしを始めた頃だった。
「ねえ、ちょっと預かってくれない?」
「私たちは夫婦共働きで忙しくて大変なのよ!」
嘘だった。
チズコが働いている姿を、マリアは一度も見たことがなかった。
どうせマリアは両親に確認などできないと知っているから、平気で嘘をつく。
「うつ病で仕事もできないとか言って、あんた暇な時間だけはあるんだから余裕でしょ」
チズコはマリアを見下して、変な物を見たように笑う。
「ていうかさあ、家族なんだから助け合わないと!」
その瞬間。
マリアの胸の奥で、冷たい異物が音をたてて存在を主張する。
その言葉は、呪いみたいに何度も聞かされてきた。
家族なんだから、助け合え。
そう言った誰もが、マリアが苦しいかなんて聞かなかった。
それでもマリアは、断れなかった。
泣き疲れたみたいなユリカの赤い目を見た瞬間、マリアは視線を逸らせなかった。
どうしても、見捨てることができなかった。
近所の子どもが叫ぶ「また明日ね」の言葉より軽く、チズコだけが扉の外に出ていった。




