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三十八歳、触れないまま恋をする〜重すぎる愛と、静かな恋の間で~  作者: ail38


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幕間:放棄

姉のチズコが家に戻ってきた日のことを、マリアは今でもよく覚えていた。


春だった。

家の外では通学路を歩きながら新学期を喜ぶ、元気な声が聴こえた。


玄関のドアが開いて、母の悲鳴みたいな声が響く。


「チズコ!?」


温かい陽気のはずなのに、一気に家の空気が冷えていく。


姉は何事もなかったみたいな顔で立っていた。

長い髪を巻いて、派手なネイルをして、ブランド物のバッグを肩にかけている。

借金だけ残して男と逃げた人間には、とても見えなかった。


父は顔を真っ赤にして怒鳴った。


「お前、どの面下げて帰ってきた!」


「うるさいなぁ」


チズコは靴を脱ぎながら、本当に面倒そうに眉をひそめた。


「別れたんだからしょうがないじゃん」


「しょうがないで済むか!」


「はいはい、ごめんって〜」


まるで悪びれていなかった。


マリアは廊下の奥から、その光景を見ていた。


姉は昔からこうだった。

誰に怒られても本気で反省しない。

自分が困っていなければ、それで全て終わりにしてしまう。


でも、その数日後。

家の空気は一変した。


「チズコさんとお付き合いしています」


そう言って頭を下げた男を見た瞬間、父と母の目の色が変わったからだ。


スーツ姿の、穏やかな男だった。

清潔感があって、話し方も柔らかい。

そして何より。


「勤務医をしています」と聞いた瞬間、母は急に背筋を伸ばした。

父は露骨に態度を変えた。


夕食の席では、今まで「恥さらし」扱いしていた娘に向かって笑顔を向ける。


「チズコ、お前もやるじゃないか」


「さすが私たちの娘、見る目があるのねえ」


チズコはその言葉を得意げな顔をして受け取っていた。

褒められて当然みたいに笑っていた。


そして、結婚前の顔合わせの日。

その男は、静かにこう言った。


「チズコさんの借金ですが」


マリアは箸を持つ手を止めた。


男は穏やかに微笑んだ。


「全額、僕が返済します」


その言葉を聴いた父が目を見開く。

母は驚きに息を呑む。


「夫になるんですから、それくらい当然です」


そう言われて、両親が完全に手のひらを返す。


「いやぁ、本当に誠実な方で、素晴らしい!」


「チズコ! よくやった!」


「いい男を捕まえたなぁ!」


さっきまで借金の話をしていたはずなのに。

もう誰も、そのことに触れなかった。


マリアは黙って白いご飯を見つめていた。

姉は昔と何も変わっていないはずなのに、両親は別人みたいに笑っていた。


マリアは行かなかったが、結婚式はたいそう豪華だったらしい。

派手な会場。

チズコらしく装飾の多い結婚式の写真を冷めた目で眺める。


親戚たちは「チズコちゃん、苦労したぶん幸せになったのね」と囁いたときく。

海外留学の嘘も、借金も、全部なかったことになった。


けれど。

短い幸せは、あっけなく崩れていった。


医者の夫は忙しかった。

夜中に呼び出されることもある。

休日に病院へ向かうこともある。


患者が最優先。

医師ならば、それは当然のことだった。


でも、結婚しても相変わらずわがままなチズコは耐えられなかった。


「また病院?」


「私より仕事が大事なんだ?」


「あなた、ほんと酷いわ!」


最初は夫も律儀に謝っていた。


「ごめん、急患なんだ」


「今度埋め合わせするから」


けれど、チズコは満足しない。


妹の成績が褒められれば不機嫌になる。

弟が体調を崩せば「私のほうがつらい」と怒る。


いつだって、世界の中心が自分でなければ嫌だった。


やがて夫は、家で笑わなくなってしまった。

会話も極端に減った。

チズコはそれを「冷たい」と責め続けた。


その頃、ユリカが生まれた。

病院で赤ん坊を抱く夫の顔を見た時だけ、チズコは少し安心した。


でも、それも長くは続かなかった。


夫はもうチズコのいる家に帰らなくなった。

スマホの通知を不自然に伏せる仕草。

洗面所にいつの間にか置かれた、知らない整髪料の存在。


浮気を問い詰めると、夫は面倒そうに言った。


「育児はきみの仕事だろ」


チズコは絶句した。


自分が欲しかったのは、“何不自由ない幸せな家庭”だった。

泣き続ける赤ん坊でも、終わらない家事でもない。

夜泣きのせいで眠れない夜でもない。


ユリカが泣くたび、チズコは苛立ってしかたなかった。

ミルクの匂いが嫌だった。

小さな手が、自分にしがみつく感覚すら鬱陶しくてたまらない。


そんなある日、両親から妹のマリアが一人暮らしを始めたと聞いたとき。


チズコは名案を思いついた。


――あの子に押し付ければいい。


頼めば断らない、都合のいい存在だった。


「あのさぁ、ユリカのことなんだけど」


マリアはずっと黙っていた。


姉が押しかけてきたのは、精神に障害があると認められて、ようやく一人暮らしを始めた頃だった。


「ねえ、ちょっと預かってくれない?」


「私たちは夫婦共働きで忙しくて大変なのよ!」


嘘だった。

チズコが働いている姿を、マリアは一度も見たことがなかった。


どうせマリアは両親に確認などできないと知っているから、平気で嘘をつく。


「うつ病で仕事もできないとか言って、あんた暇な時間だけはあるんだから余裕でしょ」


チズコはマリアを見下して、変な物を見たように笑う。


「ていうかさあ、家族なんだから助け合わないと!」


その瞬間。

マリアの胸の奥で、冷たい異物が音をたてて存在を主張する。

その言葉は、呪いみたいに何度も聞かされてきた。


家族なんだから、助け合え。

そう言った誰もが、マリアが苦しいかなんて聞かなかった。


それでもマリアは、断れなかった。


泣き疲れたみたいなユリカの赤い目を見た瞬間、マリアは視線を逸らせなかった。

どうしても、見捨てることができなかった。


近所の子どもが叫ぶ「また明日ね」の言葉より軽く、チズコだけが扉の外に出ていった。

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