幕間:家族
マリアの部屋には、カーテンの隙間から細い光だけが差し込んでいた。
昼なのか夕方なのかも、もうよくわからない。
高校生の頃までは、ここは「勉強部屋」だった。
壁には賞状が並び、模試の順位表が貼られていた。
母は親戚を呼ぶたび、誇らしそうに言った。
「マリアは本当に頭がいいのよ」
「この子だけは違うの」
「将来は有名大学に入るんだから」
その言葉を聞くたび、姉はつまらなそうに笑い、弟は露骨に不機嫌になった。
姉も弟も、昔から勉強が苦手だった。
両親はそれを「恥」だと思っていた。
“名前さえ書けば受かる”と揶揄される高校にしか入れなかった、偏差値の低い二人を見下していた。
だから唯一成績のいいマリアだけが、両親の希望だった。
期待は重かった。
家族の平穏が壊れたのは、姉が消えた日からだった。
マリアが高校生の頃。
姉は彼氏と駆け落ちした。
借金だけを残して。
家の中は地獄になった。
両親は毎日喧嘩して、弟はあまり家に帰らなくなった。
親戚には「海外に留学した」と嘘をついた。
みっともないから。
娘が男と逃げたなんて、世間体が悪いから。
その頃から、両親はマリアを見る目を変えた。
「マリアだけは裏切らないよね?」
「お姉ちゃんみたいにならないよね?」
「マリアは賢いんだから」
優しい声だった。
怒鳴られるより、ずっと苦しかった。
大学進学の話は、いつの間にか消えていた。
模試の話も、志望校の話も、誰もしなくなった。
代わりに増えたのは、金の話だった。
「就職したほうが現実的よね」
「家族なんだから助け合わないと」
「奨学金なんて借金背負わせたくないし」
聞こえのいい言葉ばかりだった。
でも本当は違う。
マリアが働けば都合がいいからだった。
マリアはそのことを、気付かないふりをしていた。
高校卒業後、マリアは就職した。
地元の企業だった。
朝早く起きて、満員電車に乗り、笑顔を貼り付けて働いた。
最初は頑張れた。
頑張らなければ、自分には価値がないと思っていたから。
けれど、眠れなくなった。
食事が喉を通らなくなった。
電車で突然ふらついて、隣の人の肩にぶつかる。
「す、すみません」
「いえ、大丈夫ですか?」
「大丈夫、です」
心配してくれる人の声すら怖くなった。
会社でミスをする度に、うまく呼吸ができなくなった。
それでも家に帰れば、両親はこう言った。
「疲れた顔しないで、しっかりしてよ」
「社会人なんだからたいへんなのは当たり前でしょ」
「もっと稼げるように出世を目指しなさい」
給料日は封筒をそのまま母に渡した。
自分の給料なのに、自分のお金ではなかった。
母は給料日だけ少し機嫌がよかった。
「ありがとう、助かるわ」
そう言って笑う顔を見るたび、マリアは胸の奥が冷えていくのを感じた。
娘として感謝されているのではなく、生活費として歓迎されている気がした。
そして、ある日。
マリアは起き上がれなくなった。
体が鉛みたいに重かった。
会社へ行かなきゃと思うのに、涙だけが出た。
その日以降、二度と会社へ行けなくなった。
布団の中で震えていると、父が扉を蹴った。
「いつまで寝てるんだ!」
怒鳴り声に、マリアの肩が跳ねる。
「会社は!?」
「……身体が、動かなくて」
「言い訳するな!」
父は舌打ちした。
「家族なんだぞ、助け合え!」
その言葉は、何度も聞いた。
「お前が働かないと借金でみんなが苦しむ!」
「いつまで社会不適合者のままでいるつもりだ!」
「いい歳して甘えるな!みっともない!!」
甘えている。
その言葉が、マリアを苦しめた。
気付いた時には、もう夜には全く眠れなくなっていた。
でも、誰も見ていなかった。
母は泣きながら言った。
「私たちだって大変なのよ?」
「どうして普通に働けないの?」
「お姉ちゃんのせいでどれだけ苦労したと思ってるの」
母は泣いていた。
けれど、何に傷付いているのか、マリアにはもう分からなかった。
見ているのは「役に立つかどうか」だけだ。
それ以外になった瞬間、自分には価値がない。
マリアは何も言わなかった。
言葉が、もう出なかった。
ただ静かに、自分の心がひび割れる音だけを聞いていた。
真っ暗な部屋に、スマホの光だけが眩しかった。




