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三十八歳、触れないまま恋をする〜重すぎる愛と、静かな恋の間で~  作者: ail38


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幕間:家族

マリアの部屋には、カーテンの隙間から細い光だけが差し込んでいた。

昼なのか夕方なのかも、もうよくわからない。


高校生の頃までは、ここは「勉強部屋」だった。

壁には賞状が並び、模試の順位表が貼られていた。

母は親戚を呼ぶたび、誇らしそうに言った。


「マリアは本当に頭がいいのよ」


「この子だけは違うの」


「将来は有名大学に入るんだから」


その言葉を聞くたび、姉はつまらなそうに笑い、弟は露骨に不機嫌になった。

姉も弟も、昔から勉強が苦手だった。

両親はそれを「恥」だと思っていた。


“名前さえ書けば受かる”と揶揄される高校にしか入れなかった、偏差値の低い二人を見下していた。


だから唯一成績のいいマリアだけが、両親の希望だった。

期待は重かった。


家族の平穏が壊れたのは、姉が消えた日からだった。

マリアが高校生の頃。

姉は彼氏と駆け落ちした。

借金だけを残して。


家の中は地獄になった。

両親は毎日喧嘩して、弟はあまり家に帰らなくなった。


親戚には「海外に留学した」と嘘をついた。

みっともないから。

娘が男と逃げたなんて、世間体が悪いから。


その頃から、両親はマリアを見る目を変えた。


「マリアだけは裏切らないよね?」


「お姉ちゃんみたいにならないよね?」


「マリアは賢いんだから」


優しい声だった。

怒鳴られるより、ずっと苦しかった。


大学進学の話は、いつの間にか消えていた。

模試の話も、志望校の話も、誰もしなくなった。


代わりに増えたのは、金の話だった。


「就職したほうが現実的よね」


「家族なんだから助け合わないと」


「奨学金なんて借金背負わせたくないし」


聞こえのいい言葉ばかりだった。

でも本当は違う。

マリアが働けば都合がいいからだった。


マリアはそのことを、気付かないふりをしていた。


高校卒業後、マリアは就職した。

地元の企業だった。

朝早く起きて、満員電車に乗り、笑顔を貼り付けて働いた。


最初は頑張れた。

頑張らなければ、自分には価値がないと思っていたから。


けれど、眠れなくなった。

食事が喉を通らなくなった。


電車で突然ふらついて、隣の人の肩にぶつかる。


「す、すみません」


「いえ、大丈夫ですか?」


「大丈夫、です」


心配してくれる人の声すら怖くなった。


会社でミスをする度に、うまく呼吸ができなくなった。


それでも家に帰れば、両親はこう言った。


「疲れた顔しないで、しっかりしてよ」


「社会人なんだからたいへんなのは当たり前でしょ」


「もっと稼げるように出世を目指しなさい」


給料日は封筒をそのまま母に渡した。

自分の給料なのに、自分のお金ではなかった。


母は給料日だけ少し機嫌がよかった。


「ありがとう、助かるわ」


そう言って笑う顔を見るたび、マリアは胸の奥が冷えていくのを感じた。

娘として感謝されているのではなく、生活費として歓迎されている気がした。


そして、ある日。

マリアは起き上がれなくなった。

体が鉛みたいに重かった。


会社へ行かなきゃと思うのに、涙だけが出た。

その日以降、二度と会社へ行けなくなった。


布団の中で震えていると、父が扉を蹴った。


「いつまで寝てるんだ!」


怒鳴り声に、マリアの肩が跳ねる。


「会社は!?」


「……身体が、動かなくて」


「言い訳するな!」


父は舌打ちした。


「家族なんだぞ、助け合え!」


その言葉は、何度も聞いた。


「お前が働かないと借金でみんなが苦しむ!」


「いつまで社会不適合者のままでいるつもりだ!」


「いい歳して甘えるな!みっともない!!」


甘えている。

その言葉が、マリアを苦しめた。


気付いた時には、もう夜には全く眠れなくなっていた。

でも、誰も見ていなかった。


母は泣きながら言った。


「私たちだって大変なのよ?」


「どうして普通に働けないの?」


「お姉ちゃんのせいでどれだけ苦労したと思ってるの」


母は泣いていた。

けれど、何に傷付いているのか、マリアにはもう分からなかった。


見ているのは「役に立つかどうか」だけだ。

それ以外になった瞬間、自分には価値がない。


マリアは何も言わなかった。

言葉が、もう出なかった。


ただ静かに、自分の心がひび割れる音だけを聞いていた。


真っ暗な部屋に、スマホの光だけが眩しかった。

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