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三十八歳、触れないまま恋をする〜重すぎる愛と、静かな恋の間で~  作者: ail38


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幕間:泣けなかった私を

夜の公園は静かだった。

街灯の光が、ベンチをぼんやり照らしている。

マリアは温くなった缶ココアを両手で包みながら、じっと地面を見ていた。


隣にはナツメ。

向かい側にはアキラ。

三人で会うことも、最近は少し増えていた。


けれど今日のマリアは、いつも以上に静かだった。


強い風が吹く。

その冷たさに押されるみたいに、マリアがぽつりと呟いた。


「……思い出したの」


ナツメが顔を上げる。


「何を?」


マリアはココアを一口飲んでから、ようやく答えた。


「私が、なんでずっと消えたかったのか」


アキラの表情がこわばる。

マリアはとても遠い場所を見る目をしていた。


「小学校に、入ったばかりの頃」


静かな声だった。


「学校行きたくないって、お母さんに言ったことがある」


ナツメもアキラも何も言わない。

マリアは続ける。


「……あの頃の私は、落ちこぼれで」


その一言があまりにも小さくて、二人の胸が痛んだ。


「勉強もできないし、運動もできないし、先生には怒鳴られるし、みんなにも笑われてた」


マリアは笑わなかった。

感情を失くしたみたいに淡々と喋っている。


「だから……行きたくないって言った」


夜風が長い髪を揺らす。


遠くで酔った大学生の集団が、賑やかに公園を通り過ぎていく。


「そうしたら、お母さんは……“ずる休みなんて世間体が悪い、ふざけるな”って」


ナツメの眉がぴくりと動く。


「玄関から突き飛ばされた」


アキラが息を呑んだ。

マリアは俯いたまま、両手で包んだ缶ココアを見つめている。


「その時、分かったんだ」


声が少しだけ震えた。


「普通の子じゃないと、生きてちゃいけないんだって」


マリアは静かに続けた。


「誰も助けてくれないんだって」


街灯の光が、マリアの横顔を白く照らしていた。


「だから決めたの」


「……」


「誰にも、助けを求めないって」


アキラが耐えきれないように、口元を押さえる。

マリアは気付かない。


「苦しいって言っても無駄だから」


「……マリア」


ナツメがそれ以上の言葉を止めようとする。


「それからずっと、“普通になりたい”しか考えてなかった」


マリアは薄く笑った。


「ずっと、普通になりたかった」


ひび割れた仮面みたいな笑顔。


「怒られないようにして」


「嫌われないようにして」


「迷惑をかけないようにして」


「ちゃんとした子のふりをして」


「優等生みたいに振る舞って」


言葉が増えるたび、ナツメの目が赤くなる。


「でも、頭の中ではずっと」


マリアは小さく呟く。


「ずっと、ずっと、ずっと、ずっと……」


「消えたいって、思ってた」


その瞬間。

ぽたり、と音がした。


マリアが顔を上げる。

ナツメが泣いていた。

肩を震わせながら、俯いている。


「……え」


隣ではアキラまで涙を流していた。


「あの、なんで……」


マリアは困ったように二人を見る。


「どうして二人が泣くの?」


その言葉で、アキラの涙がさらに溢れた。


「だって……っ」


声が詰まる。


「そんな小さい頃から、そんなこと思ってたなんて……」


アキラは顔を覆う。

ナツメは涙を拭おうともせず、乱暴に鼻をすすった。


「……まじで、ふざけんなよ」


怒りに震える声だった。


「子ども一人に背負わせることじゃねえだろ……」


ナツメが顔を上げる。

泣き顔のまま、真っ直ぐマリアを見る。


「これはな、今まで、マリアが泣けなかったぶんの涙だ」


今度は優しさを伝えようとして、声が震えた。


「……」


マリアの胸の奥がぐらぐら揺れる。

ナツメは涙をぼろぼろ流しながら笑った。

ぐしゃぐしゃの顔で。


「消えないでくれてありがとう、マリア」


その言葉が。

マリアの心の奥深くへ落ちていく。

アキラも泣きながら言う。


「よく生きててくれたね」


マリアの呼吸が止まる。

誰にも言われたことがなかった。

生きててくれてありがとう、と。


ずっと。

「普通じゃない自分は駄目なんだ」と思っていた。

消えたいと思う自分は欠陥品だと。


なのに。

二人は泣きながら、自分が生きてきたことを肯定してくれる。


マリアの中で、何かが崩れた。

張り詰めていた糸みたいなものが、ぷつりと切れる。


「……っ」


息が乱れる。

視界が歪む。


マリアは自分の顔を覆った。

止め方が分からなかった。


涙が、溢れて止まらない。

子どもの頃の小さな自分が、胸の奥でやっと泣けた気がした。


この涙は、マリアだけのものだ。


ナツメはそんなマリアを見ながら、静かに決める。

これから先。

ナツメは、もう「普通」に戻そうとは思わなかった。


ただ。

もう二度と、「一人で消えたい」と思わせたくなかった。


アキラはもう、一緒にいることしか、自分にはできない気がした。


彼氏の愚痴を言い合う女性二人が、近くのベンチに座って喋り始めた。


夜風はまだ冷たかった。


それでも二人の言葉が、凍りついていた心の奥へ、ゆっくり染み込んでいく。


――この人たちに、会えてよかった。


マリアは、こんなふうに自分のために泣いてくれる二人へ、どうしようもないほど感謝していた。

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