幕間:あの夏の日からずっと
夕方の公園は、ひどく静かだった。
冬の空気は冷たく、ベンチの金属は凍るみたいに冷えている。
マリアは一人で座っていた。
膝の上のスマホが震える。
表示された名前を見た瞬間、胃が重くなる。
母親だった。
何年も音信不通だったのに。
マリアは迷った末、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『あんたねえ!』
怒鳴り声が耳を刺した。
反射的に肩が縮こまる。
『ダイチくん結婚したんだって!』
マリアは黙る。
『同い年の従兄弟はちゃんとしてるのに、あんたは何なの!?』
冷たい風が頬を撫でる。
『いつ結婚するのよ!』
「……」
『姉に土下座してでも、稼ぎのいい男紹介してもらいなさいよ!』
スマホを持つマリアの指が、冷たい風のせいではなく、大きく震える。
成績。
愛想。
進学。
就職。
結婚。
普通になれなかったマリアを、何より憎んだ。
『あんたのせいで、私は子育て失敗したって陰で笑われてるのよ!』
頭が痛い。
耳鳴りがする。
『せめて金持ちと結婚して老後の面倒みなさい! それくらいしか価値ないんだから!』
マリアは何も言えなかった。
目眩がする。
指が冷たい、寒い。
いつもは気にならないはずの、遠くで遊ぶ子どもたちの笑い声が耳障りに聴こえた。
「……ごめんなさい」
かすれた声を絞り出す。
『親孝行しなさいよ、ほんと役立たずね!』
その瞬間だった。
「おい」
低い声。
突然スマホが手から奪われる。
マリアが顔を上げると、ナツメが立っていた。
隣にはアキラもいる。
二人とも、ひどい顔をしていた。
ものすごく怒っている。
『誰よあなた!?』
電話の向こうで母親が喚く。
『あら、ちょっと待って!もしかしてマリアの彼氏かしら?』
ナツメを男だと勘違いした母親が、急にしおらしい声色になる。
だがナツメは冷え切った声で返した。
「病人に何言ってんだよ、あんた」
『え?』
「二度とかけてくんな」
通話が切れる。
乱暴にではなく、静かに。
でも完全に拒絶する手つきで。
マリアは呆然と二人を見上げる。
アキラがしゃがみ込む。
「……大丈夫?」
優しい声だった。
マリアの目から涙が溢れる。
止まらない。
「ごめ……」
「謝んなくていい」
ナツメが即座に言う。
「何なんだよ、今の」
マリアは泣きながら俯く。
「け、結婚しろって」
「同じ歳の、従兄弟、ダイチが結婚したから」
声が途切れる。
「私も、はやく結婚しろって……」
アキラの表情が歪む。
「はあ? そんなしょうもない理由で?」
「……うん」
「気にしなくていいよ、そんなの」
アキラは静かに言った。
「結婚してない人なんて今いくらでもいるし」
「いや、そういう問題じゃねえだろ」
ナツメは苛立ちを隠さない。
「あの母親、自分のことしか考えてねえじゃん」
マリアはベンチの上で小さくなる。
「……私」
マリアがぽつりと言う。
「結婚なんて、無理だから、困る」
ナツメとアキラが黙る。
マリアは膝を見つめたまま続けた。
「……小学生の時」
胸が痛い、喉が詰まる。
「夏休み、木登りとかして、遊んでた、のに……」
それでも、初めて口にした。
「……歳の離れた、ダイチの兄に」
「無理矢理……身体を、触られて、それで……」
冷たい風だけが、三人の間を通り抜けていく。
「それ以来、人に触られるの……気持ち悪くて」
かすれた声。
息が、苦しい。
「……そういうの」
「考えるだけで、だめで」
ナツメもアキラも、何も言えなかった。
マリアは泣きながら笑う。
「だから、普通に結婚とか、できないの……」
その笑い方があまりにも儚くて、アキラは息を呑む。
ナツメも静かに俯く。
アキラがそっと言う。
「……話してくれて、ありがとう」
マリアは目を閉じる。
軽蔑されるんじゃないかと思って、怖かった。
でも二人は、沈黙で受け入れてくれた。
遠くで遊んでいた子どもたちの声は、いつの間にか止んでいた。
ナツメは何か言おうとして、結局何も言えなかった。
アキラは小さく呟く。
「……ごめんね」
何に対しての謝罪なのか、自分でも理解できていないような弱い声だった。
ただ二人とも、同じベンチの近くにいる。
その距離が、今のマリアにはありがたかった。
「そいつ、殺してやりてえ……」
ナツメは痛みを無理に抑えたような声で、物騒なことを言う。
「……ごめん、うまく言えなくて」
アキラが申し訳なさそうに、静かに言う。
マリアは呆然と二人を見る。
ずっと、普通になれない自分が悪いのだと思っていた。
涙が、うまく止まらなかった。
「……ありがとう、二人とも」
自分の傷を知った上で、離れない人がいる。
その事実だけで、冷え切っていた指先が、少しだけ動く気がした。
暗くなりかけた冬の公園には、街灯が灯り始めていた。




