幕間:あなたのいない幸福
ダイチが高校生の時だった。
兄が警察に捕まった。
未成年の少女に手を出そうとしたらしい。
ニュースになるほどではなかった。
地方欄の、小さな記事。
でも家の中が壊れるには十分だった。
父親は怒鳴り、母親は泣き喚き、互いに責任を押し付け合った。
『あんたの育て方が悪い!』
『甘やかしたのはお前だろ!』
昔から不仲だった夫婦は、そのまま離婚した。
ダイチは母親についていくことになった。
狭いアパート。
湿った空気。
食卓では毎日のように誰かの悪口が飛び交った。
兄のこと。
父親のこと。
近所の人間のこと。
そして時々、マリアのこと。
「そういえば、あの子」
味噌汁を飲みながら、母親が鼻で笑う。
「今、病気で働いてないんだって」
ダイチの箸が止まる。
「……誰」
「マリアちゃんよ」
嬉しそうだった。
他人の不幸を舐めるみたいな声。
「昔あの母親、うちに散々自慢してたじゃない。マリアは優秀だーって」
母親は肩を揺らして笑う。
「結局ああいう家ほど駄目になるのよ。罰が当たったのね」
ダイチは黙っていた。
母親は気付かない。
その言葉を聞くたび、ダイチがどんな顔をしているか。
「ああもう、味噌汁こぼしちゃったじゃない」
「まったく、話しながら食べるのはだめねえ」
食卓に広がる味噌汁を眺めながら思う。
家族のことを、好きだと思ったことはない。
ただ、嫌いとも言い切れなかった。
何か言いかけて、やめた。
その方が楽だった。
母親と暮らすようになってから、ずっとそうだった。
家の中で波風を立てない方法ばかり覚えた。
その夜、ダイチは一人で煙草を吸った。
狭いベランダで考える。
マリアが病気。
働けない。
頭の中に浮かぶのは、小学生の頃のマリアだった。
白い肌。
栗色の髪。
野菜を齧って少しだけ笑う顔。
最後に見たのは、血に濡れた顔だった。
夏の終わり、折れた木の枝、白い顔を鮮血で染めた少女。
あのときのことが、今でも時々夢に出てくる。
うまく形にならないまま、ぼんやりとした罪悪感だけが残る。
会うべきかもしれないと思ったことはある。
でも結局、やめた気がする。
いつの間にかそうなっていた。
ダイチには恋人がいた。
結婚を約束している相手。
明るくて、優しい女性だった。
兄の事件を知っても気にせず、好きだと言ってくれる人。
普通の幸せを、一緒に歩んでくれる人。
迷った、というより——
一瞬だけ、戻れそうな気がした。
マリアに会えば、多分、自分は揺らぐ。
ずっと蓋をしてきた感情が壊れる。
連絡を取ろうとして、母親に声をかけそうになっても。
会いに行こうとして、今は居場所さえ知らないと気づく。
だから、全部諦めた。
「もう過去のことだから、関係ない」
自分にそう言い聞かせた。
結婚式の日は、晴天だった。
白いドレス姿の彼女は綺麗で、泣きながら笑っていた。
小さな式だが、友人たちが祝福してくれる。
たくさんの拍手が響く。
はしゃいだスピーチが長引いたせいで、白いテーブルの上の料理は少し冷めていた。
幸せな光景の中で、ダイチも笑っていた。
ちゃんと。
誰から見ても、幸福そうに。
でも、誓いの言葉を口にしながら、ふと思い出す。
夏の匂い。
折れた木の枝。
「さようなら」
片目を押さえながら、小さく笑った少女。
あれが初恋だった気がする。
そして多分、自分は今でも。
マリアを一番愛している。
それでもダイチは、その事実を胸の奥へ押し込めた。
知らないふりをした。
自分はもう別の人生を選んだのだから、と。
そして最後まで知らない。
兄が、あの夏の夜、マリアに何をしたのか。
マリアがどんな恐怖を抱え続けて生きているのか。
何も知らないまま、心の中ではマリアを想いながら。
たぶん、ちゃんと幸せなんだと思う。
夏の匂いを感じながら、そう信じていた。




