幕間:ただの他人になれた
平日の昼前だった。
マリアは病院へ向かうため、駅前の通りを歩いていた。
昨夜も眠れていない。
薬で鈍った頭。
重い身体。
髪も適当にまとめただけだった。
昔みたいに「ちゃんとした人」に見える努力を、もうほとんどしていない。
白いマスク。
色褪せたパーカー。
安いスニーカー。
生き延びるだけで精一杯の格好だった。
横断歩道の信号を待っていた時。
向こう側から歩いてくる女を見て、マリアの呼吸が止まる。
ハルミだった。
すぐ分かった。
髪型が変わっても、化粧が濃くなっても、それでも分かる。
何度も夢に出てきたから。
高校時代の、美術室。
逃げても追いかけてくる声。
『私が一番マリアを分かってる』
『マリアには私が必要なんだよ』
悪夢の中で繰り返し聞いた。
だから、一瞬で分かった。
マリアは反射的に俯く。
胸の奥がざわつく。
胃の奥が冷たくなる。
足が止まりそうになる。
なのに逃げる気力も湧かなかった。
それなのに。
ハルミは、マリアに一切気付かなかった。
視線すら向けない。
ただ通りすがりに、露骨に顔をしかめる。
「うそでしょ」
小声で笑う。
見ているのはマリアではなく、“通りの風景”みたいだった。
「今の人、いい歳してすっぴん?」
マリアは足を止めない。
「大人としてありえないんだけど」
くすくす笑う声。
「ああいう感じ、ほんと無理」
ハルミはマリアを見ている。
でも、“マリア”だとは認識していない。
あれほど「特別」だと言っていたのに。
綺麗じゃなくなった瞬間、気付きすらしない。
壊れて、やつれて、昔の面影も薄くなった今のマリアには、何の興味もない。
信号が青になる。
人の流れが動き出す。
すれ違う瞬間、ハルミの香水の匂いがした。
強く香る、甘ったるい匂い。
「マリアって放っとけないんだよね」
「私が支えないと」
「私だけは特別だから」
昔の声が頭の奥で蘇る。
でも。
今、ハルミはその“特別”を見抜けない。
マリアが目の前にいるのに。
ただ、身なりの悪い女を見下しているだけ。
その滑稽さに、マリアは怒りすら湧かなかった。
むしろ妙に安心した。
あんなに苦しめられた相手が、こんなにも薄っぺらい。
マリアは横断歩道を渡り切る。
後ろから、まだハルミの声が聞こえる。
「なんか人生諦めてる系の人って怖くない?」
「わかる〜」
軽い笑い声がする。
マリアは振り返らない。
もう、関わりたくない。
そう思いながら歩き続ける。
空は曇っていた。
病院へ向かう足取りは重いままだった。
高校時代、自分を“所有物”みたいに扱っていた人間が、自分を見ても気付きすらしない。
その現実が、どこか皮肉で。
マリアはそこで考えるのをやめた。
もういい、とだけ思う。
もう、夢に出ないかもしれない。
マリアはそのまま歩き続けた。




