幕間:生まれ変わるように
病院を出た頃には、空は薄い灰色だった。
薬局の白い袋を抱えたまま、マリアはゆっくり歩く。
眠気、吐き気。
頭の奥に膜が張ったみたいな感覚。
診察の日はいつも、生きている感覚が遠かった。
公園へ向かう道を曲がる。
ナツメが先にベンチで待っているはずだった。
その時。
「……マリア?」
不意に名前を呼ばれて、マリアは足を止めた。
振り返る。
知らない女の人が立っていた。
青いロングコート。
カラフルなメッシュの入った髪。
細い指には絵の具の跡みたいな赤が少し残っている。
個性の主張が強い人だった。
でも、誰だか分からなかった。
相手は少し困ったように笑う。
「そんな警戒しないでよ」
その笑い方で、ようやく気付く。
「……カナタ先輩?」
「正解」
マリアは息を呑んだ。
高校卒業以来、一度も会っていない。
なのにカナタ先輩は自然な顔で言った。
「昔とはずいぶん違うけど」
マリアの顔を見る。
痩せた頬。
隠しきれない隈。
伸ばしっぱなしの髪。
「近くで見たら、マリアだって分かった」
その言い方が昔と同じで、胸が苦しくなる。
マリアは反射的に目を逸らした。
見られたくなかった。
今の自分を。
高校生の頃の自分は、まだ綺麗だったから。
壊れかけてはいたけれど、まだ人間の形をしていた。
今は違う。
薬がなければ眠れず、働けず、まともに笑うことも難しい。
「……すみません」
気付けば謝っていた。
カナタ先輩は眉を下げる。
「なんで謝るの」
「なんか、昔と違いすぎて」
「そう?」
カナタ先輩はあっさり言った。
「私は今の方がなんかいいなと思う」
マリアは目を瞬く。
「え」
「昔のマリアってさ、ちゃんとしてたよね」
マリアが小さくうなずく。
「ちゃんとしすぎてたというか」
「今の方が、呼吸してる感じする」
そこで一度言葉を切って、
「今は、一回粉々になってさ」
冗談っぽく笑う。
でもその眼は優しかった。
「再生してる途中って感じ」
マリアの喉が詰まる。
そんな風に言われたこと、一度もなかった。
壊れた。
駄目になった。
何もできない人間。
弱い人間。
そういう言葉ばかり向けられた。
再生。
言葉の意味がうまく頭に入ってこなかった。
壊れたものは、捨てられるものだと思っていた。
「……再生なんて、できてないです」
マリアはかすれた声で言う。
「毎日、壊れてる」
「うん」
カナタ先輩は普通に頷いた。
「なんていうか、再生するのって痛みが伴うもんじゃない?」
カナタ先輩はそう言ってから、
「……いや、なんか筋肉痛みたいな言い方になったな」
「ああでも、成長痛みたいなもんだと思えば、合ってるか」
と少し笑った。
風が吹く。
薬局の袋が冷たい風に揺れていた。
カナタ先輩は紙袋を持ち直す。
中には画集らしき本が見えた。
「今、絵の仕事してるんですか」
「してるよ、なんとかね」
少し照れくさそうに笑う。
「個展も定期的に開けるくらいには売れてる」
高校時代、先生たちが騒いでいたのを思い出す。
天才。
特別な人。
きっと遠い場所へ行く人。
本当に行ってしまったんだ、とマリアはぼんやり思った。
「だから」
カナタ先輩はスマホを取り出して、ギャラリーの名前を見せる。
「気が向いたらいつでもおいで」
柔らかい声だった。
「ただ見るだけでもいいし」
少し笑う。
「ぼーっと座ってるだけでも歓迎」
「お客さんが増えるだけで、こっちも助かるし」
その言い方が、高校時代と同じだった。
『そこの椅子座れば』
油絵の匂い。
夕暮れの美術室。
記憶が急に蘇る。
マリアは苦しくなる。
高校生の自分は、カナタ先輩の絵に救いを見ていた。
額縁の中。
壊れていても存在していい世界。
現実から切り離された、静かな場所。
あの頃の自分は、本気で願っていた。
自分も絵の中に入りたい、と。
でも。
今の自分が、カナタ先輩の絵を見たら。
何を思うんだろう。
もう戻れない。
額縁の世界に憧れていた少女には。
今の絶望はもっと重く、生活に染み込んでいる。
朝、薬のシートを数えて。
昼は何も食べられなくて。
夜は音のない部屋で、何もできずに時間だけを消費する。
必要最低限しかない連絡先。
働けない罪悪感。
額縁の外側の苦しさを、毎日味わっている。
マリアは静かに俯く。
「……怖いです」
「何が?」
「先輩の絵を見るの」
カナタ先輩は少しだけ驚いた顔をした。
マリアは続ける。
「昔の私は、先輩の絵の中に逃げたかった」
声が震える。
「でも今の私は、多分……」
そこで言葉が止まる。
カナタ先輩は急かさなかった。
沈黙のあと、マリアは小さく言う。
「現実に、戻ってこれなくなりそうで」
カナタ先輩はしばらく黙っていた。
やがて穏やかに笑う。
「じゃあ戻ってこなくていい日だけ来れば?」
マリアは顔を上げる。
「絵ってさ」
カナタ先輩は寂しげな公園の木々を見つめる。
「現実から逃げるためだけにあるわけじゃないから」
その横顔は、高校生の頃より少し疲れて見えた。
でも、昔よりずっと自由だった。
「まぁさ」
カナタ先輩は肩をすくめる。
「帰る場所なんて人それぞれだよね」
「椅子だけあればいいのかもしれないし」
「そこに座ってる間だけは、何もしなくていい場所」
マリアはその言葉を、すぐには理解できなかった。
優しい言葉だった。
優しすぎて泣きそうだった。
その時、遠くのベンチにナツメの姿が見えた。
こちらを見ている。
少し警戒した顔。
マリアは小さく息を吸う。
額縁の中では生きられなかった。
現実は苦しいままだ。
それでも。
「無理に来なくていいからね」
「でも、来たくなった日はさ、同性の可愛い女の子なら大歓迎だから」
カナタ先輩は昔と同じ言葉を、少しおどけた口調で言った。
静かに、安らげる場所だけを差し出してくれる。
マリアはその優しさを、胸の奥でゆっくり噛みしめた。




