ユリカルートif:未完成の恋
秋の終わりだった。
老人ホームの中庭に、金木犀の匂いが残っている。
「ユリカさん、今日もありがとうねえ」
「いえ、こちらこそ」
車椅子のブレーキを確認しながら、ユリカは柔らかく笑った。
利用者の小さな変化によく気付く真面目さ。
忙しくても声を荒げない優しさ。
夜勤明けでも丁寧な仕事。
そんな姿を見て、職場の人たちは口を揃える。
「本当にしっかりしてるよね」
「若いのに立派だなあ」
ユリカは頭を下げながら、そのたびに少しだけ違和感を覚える。
立派な大人。
昔の自分が聞いたら、笑ってしまいそうな言葉だった。
仕事帰り、公園へ向かう。
ベンチにはマリアがいた。
黒いパーカーに、白いマスク。
栗色の髪は少し寝癖がついたまま。
相変わらず痩せていて、小さな背中だった。
それでも今日は、少し顔色がいい。
「マリア!」
「……ユリカ」
隣に座る。
昔みたいに、すぐ触れたりはしない。
「マリア、今日は何か食べられた?」
「おにぎり」
「偉すぎる」
「一口、かじった」
「そっかあ……」
そこでユリカの指がポケットの紙に触れる。
「これ見て!今日ね、利用者さんに手紙もらったの」
「へえ」
「ほらここ、“ユリカさんがいると安心します”だって」
マリアは少し笑う。
「すごいね」
その声が嬉しくて、ユリカは続ける。
「前に夜中、ずっと不安がってる人がいて」
「うん」
「なんか、わかったんだ」
ユリカは少し照れ臭そうに笑った。
「昔のマリアみたいで」
マリアの長い睫毛がわずかに揺れる。
「だから私、今の仕事が好き」
風が吹いた。
落ち葉がベンチの足元を転がっていく。
「全部、マリアのおかげなんだよ」
ユリカは手紙を丁寧に畳んでポケットにしまう。
マリアはしばらく黙っていた。
やがて、小さく言う。
「……ユリカ、変わったね」
ユリカの表情が明るくなる。
「もう、私だけを見ていた頃とは違う」
「ちゃんと他人と向き合えてる」
やっとマリアに認めてもらえた。
ずっと欲しかった言葉だった。
けれど。
「だから」
マリアは続ける。
「そろそろ、私以外との未来を考えてみてほしい」
その瞬間。
胸の奥がぐらりと揺れた。
「……なんで」
「ユリカなら、誰かと普通に幸せになれると思う」
「やめて」
声が低くなる。
「私には、マリアしかいないのに」
呼吸が速くなる。
「過去も未来も、全部マリアだけなのに」
マリアは心底困ったように目を伏せる。
その顔を見ると、さらに苦しくなる。
「私は、マリアさえいてくれれば——」
そこまで言って、ユリカは止まった。
マリアの顔が、あまりにも疲れて見えたから。
ユリカは唇を噛み、俯く。
それ以上は何も言えなかった。
数日後、仕事帰りの夕方。
ユリカは偶然、あの公園の前を通った。
そして足を止める。
ベンチに、マリアがいた。
……一人じゃない。
ナツメだった。
短髪の、男っぽい口調の女。
缶コーヒーを片手に、いつものぶっきらぼうな顔で座っている。
マリアは小さく笑っていた。
ユリカの知らない顔だった。
カフェオレを両手で持ちながら、少しだけナツメに近づいて何かを話している。
その時。
もう一人、女が現れた。
落ち着いた大人の雰囲気の女性だった。
マリアが少し驚いて、それから安心したみたいに笑う。
ユリカは、その人から目を離せなかった。
マリアは、自分といる時よりずっと呼吸が楽そうだった。
三人は静かに話していた。
ナツメが呆れたように笑い、アキラが柔らかく返す。
その真ん中で、マリアは少しだけ肩の力をぬいている。
ユリカは木陰から動けなかった。
そこで初めて気付く。
ナツメは、無理に笑わせようとしていなかった。
アキラも、マリアが黙るとちゃんと待っていた。
二人とも、マリアを変えようとしていない。
ただ、マリアの意思がどこにあるかを見ている。
ユリカだけが、「どうして私を見てくれないの」ばかり考えていた気がした。
ユリカは俯く。
ずっと、“マリアのため”と言いながら。
マリアがいないと困るのは、本当は自分だった。
そんなこと、とっくに分かっていた気もした。
「私しかいない」
そう思い込むことで、自分を保っていた。
自分が愛されたい気持ちを一番に優先していた。
夕焼けが少しずつ闇に染まっていく。
ベンチの三人は、穏やかに笑っている。
その輪の中に、自分は入れない。
でも。
ユリカは不思議と、前みたいに壊れそうにはならなかった。
胸は痛い。
泣きたいくらい苦しい。
それでも。
「……そっか」
小さく呟く。
ようやくわかった気がした。
三人の輪の中で、マリアはちゃんと息をしていた。
たとえ、その場所に自分がいなくても。
ユリカは静かに踵を返す。
夕焼けが滲んでいる。
未完成のまま終わった恋だった。
それでも。
何も壊さなかったことだけは、間違いじゃなかったと思いたかった。
ベンチの笑い声がもう聞こえなくなるまで、ユリカは振り返らなかった。




