ユリカルート:あなただけが欲しくて、もう待てなかった2
春の終わりだった。
老人ホームの廊下に、午後の日差しが斜めに差し込んでいる。
「ユリカさん、助かったよ」
「どういたしまして」
車椅子を押しながら、ユリカは穏やかに笑った。
入居者の小さな変化によく気付く、声を荒げない優しい人。
どれだけ忙しくても仕事が雑にならない真面目さ。
「本当に丁寧だよねえ」
「安心感あるわ」
職員たちは口を揃えてそう言う。
「次もユリカちゃんがいいわ」と、利用者が袖を掴む。
「ユリカちゃんが担当だと安心するのよ」
シーツ交換を終えると、利用者が「ありがとう」と笑った。
その瞬間だけ、胸の奥が少し静かになる。
仕事を終えた帰り道。
ユリカは公園へ向かう。
今日はマリアと会う日だった。
ベンチには、黒いパーカー姿のマリアが座っている。
春なのに、まだ少し寒そうに背を丸めている。
「マリア」
「……ユリカ」
その声は相変わらず静かで、弱々しい。
マリアの声を聞いただけで、心が穏やかになる。
隣に座る。
「今日は何か食べられた?」
「野菜ジュース飲んだ」
「それは、食べたっていうかなあ」
ユリカは苦笑しながら続ける。
「昨日もね、利用者さんに褒められちゃった」
「へえ」
「“ユリカちゃんは優しいね”って」
マリアはおかしそうに笑う。
「本当に優しいんだと思うよ」
ユリカは照れ臭そうに俯いた。
長い黒髪が、肩をすべり落ちていく。
「全部、マリアのおかげだよ」
「私?」
「うん」
ユリカはゆっくり言葉を選ぶ。
「私、人の世話することしかできなかったから」
風が吹いて、二人の髪が揺れる。
「でも、マリアを見てきたから……今の仕事も頑張れてる」
マリアは黙って聞いている。
「利用者さんが不安そうな時、なんとなくわかるんだ」
「昔のマリアに似てるから」
何も持たないマリアの指先が、まるで何かを掴むように動きかける。
ユリカは誇らしかった。
幼い頃みたいに、泣きながら縋りつくこともない。
仕事終わりに一人でコンビニにも寄れる。
「だから私、今すごく充実してるの」
そう言った時。
マリアは静かに目を伏せた。
「……ユリカ、変わったね」
その言葉に、ユリカの胸が高鳴る。
「昔みたいに、私に依存してるだけじゃなくなった」
「ちゃんと外の世界で生きてる」
ユリカは思わず視線を逸らした。
泣きそうになる。
だが次の瞬間。
「だから」
マリアは続けた。
「そろそろ、私以外との未来を考えてみてほしい」
「……え?」
「ユリカなら、ちゃんと誰かと幸せになれると思う」
「職場の人とか、友達とか」
「そういう普通の——」
「やめて!」
低い声だった。
マリアが怯えたように顔を上げる。
ユリカは震えていた。
「なんでそんなこと言うの?」
「ユリカ」
「私の過去も未来もマリアだけなのに!」
身体の震えが酷くなる。
「私は、マリアさえいてくれればいいのに!!」
マリアはつらそうに眉を寄せた。
その表情が、さらにユリカを追い詰める。
また拒絶される。
普通なんてどうでもいい。
マリアだけを愛して生きたい。
「ちゃんと働いてるし、もう子供じゃないし……」
呼吸がうまくできない。
「だから、私は——」
マリアの顔色がどんどん悪くなっていく。
だが、ユリカは止まれなかった。
「絶対、結婚するんだ」
ユリカの視界には、もうマリアしか映っていなかった。
マリアの肩を掴む。
肩に触れた瞬間、骨の感触が近かった。
「ユリカ、やめ」
言い終わる前に、ユリカは顔を近付けた。
キスしようとした。
だが。
乾いた音がした。
ユリカの頬が横に弾かれる。
マリアの手だった。
ユリカは呆然とする。
マリアは恐怖で震えていた。
「……無理」
声がかすれている。
「私は、無理」
頭の中が、一瞬真っ白になる。
ユリカの視界が滲む。
「なんで」
「ごめん」
「なんで!?」
感情が溢れる。
「私、頑張ったのに!」
「マリアのために生きてきたのに!」
「ちゃんと大人になったのに!!」
公園に大きく声が響く。
通行人が驚いて振り返る。
でも止められない。
マリアは青褪めた顔で言う。
「だからだよ……」
「ユリカは、もう私のためだけに生きないで」
強い風が吹く。
公園の木々が耳障りな音をたてる。
震える声で、マリアは続けた。
「私は、人を幸せにできる人間じゃない……」
「誰かの人生を背負えない」
「ユリカの気持ちには、応えられない」
頬が熱かった。
でも、どこを叩かれたのかよく分からなかった。
頑張れば、いつか永遠に隣にいられると思っていたのに。
マリアはふらつきながら、なんとか立ち上がった。
「……また、しばらく会わない方がいい」
その言葉に、ユリカは顔を上げる。
「やだ」
「ユリカ」
「嫌だ!!」
子供みたいな声だった。
だがマリアは、もう近付いてこなかった。
「ごめんね」
マリアは背を向ける。
遠ざかっていく。
ユリカは追いかけられなかった。
足が動かなかった。
誰もいない、公園のベンチだけが残る。
夕暮れが滲む。
ユリカはその場に崩れ落ちた。
さっきまでマリアが座っていた場所だけ、少しぬるい温度があった。




