アキラルート:眠れないあなたの隣で3
寒い冬の日だった。
公園のベンチには冷たい風が吹いている。
けれど、マリアは以前ほど不自然に震えなくなっていた。
ナツメが缶コーヒーを三本買ってきて、一本をアキラに投げる。
「ほら」
「おっ、ありがと」
「マリアのは?」
「今日も甘いやつ」
ナツメが差し出したミルクティーを、マリアは両手で受け取った。
「……甘いの選んでくれたんだ」
「そりゃ、マリアは甘党だしな」
昔から、ナツメはそうだった。
ナツメは、いつもマリアの分だけ甘い缶を選ぶ。
そのたびに、マリアは胸のどこかが落ち着かなくなる。
自分は何も返せていない気がして。
「マリア?」
アキラが顔を覗き込む。
「ぼーっとしてるね」
「……ちょっと疲れただけ」
「帰る?」
「ううん、大丈夫」
そう答えたものの、マリアの呼吸は少し浅かった。
アキラはそれ以上聞いてこない。
それだけで、胸のざわつきが少し引いた。
気づくと、缶が三本並ぶのが当たり前になっていた。
マリアは人が増えることを恐れていたはずなのに、いつの間にかアキラがいると空気が柔らかくなった。
ナツメも、アキラには妙な遠慮をしなかった。
時々張り合うように言い合いをするくせに、マリアが苦しそうだと二人同時に黙る。
最近は、缶を受け取る時に「ありがとう」が増えた。
けれどアキラにとって、それは十分すぎるほど嬉しいことだった。
ある夜。
アキラは帰宅後、暗い部屋でスマホを見つめていた。
仕事のミス、上司からの圧力。
SNSには書けない疲労。
昔の自分なら、一人で抱え込んでいた。
でも今は違う。
『今日もありがとう』
マリアから届いた短いメッセージ。
そのメッセージを、アキラは何度も繰り返し見ていた。
その理由を考えたくなくて、しばらくスマホを伏せた。
枕に顔を埋めながら、それでもスマホを手放せない。
スマホを伏せても、また画面を見てしまう。
同時に、怖くなった。
マリアは普通の恋愛ができない。
触れられるだけでパニックになる日もある。
もし気持ちを伝えたら、もう二度と公園に来ないかもしれない。
送信しかけたメッセージを、アキラは三回消した。
その日は雨だった。
公園の人影は二人だけで、雨音が静かに響いている。
ナツメは仕事で遅れると言っていた。
ベンチには、傘をさしたマリアとアキラだけが立ち尽くす。
マリアはぼんやり雨を見ていた。
「……雨、嫌い?」
アキラが聞く。
「嫌いじゃない。世界が静かになるから」
「そっか」
沈黙。
やがてアキラは、ゆっくり口を開いた。
「あのね、マリア」
「なに」
「今日は、大事なこと話すね」
「……私、アキラの冗談好きだよ」
「お世辞でも嬉しい!じゃなくて」
「……」
「私、もう友達としてだけじゃない」
傘を持つマリアの両手が小さく震える。
雨音が不規則になる。
アキラは続けた。
「マリアのことが、好きなの」
「返事はいらない」
「でも、伝えたかった」
マリアは何も言えなかった。
マリアの傘が、小さく揺れ続けている。
「……私」
声がこぼれる。
「普通の恋人は、無理だよ」
アキラは黙って頷く。
「手を繋げない日もあるし」
「うん」
「触られるのが、怖いの」
「うん、わかってる」
「一生、清い関係でもいいなら……」
言葉が途切れる。
マリアは視線を落とした。
それでも続ける。
「それでもいいなら、……そばにいてほしい」
雨音の中。
アキラは泣きそうな顔で笑った。
「うん!」
返事に、迷いはなかった。
「ずっといる、あなたのそばに」
マリアは、その言葉に自分でも驚くほど安心していた。
アキラは最後まで、無理に手を握ってこなかった。
深夜三時。
通話越しにページをめくる音だけが聞こえる。
「そこ、私も好き」
「うん」
「この本、ラストがいいよね」
「わかる、『じゃあね』だけで終わるのがいい」
本の話題だとマリアの口は滑らかになる。
ナツメは最初、複雑そうな顔をしていた。
けれどマリアが以前より穏やかになっていくのを見て、何も言わなくなった。
アキラから手渡される缶コーヒーを、黙って受け取る。
「……幸せになれよ、マリア」
ある日、ナツメはぽつりと本音をこぼした。
マリアは困ったように笑う。
「ありがとう」
その笑顔を見て、ナツメも少しだけ笑った。
夏になり、アキラは転職した。
「もう愛想笑いで胃が痛くなる仕事やめた!」と、アキラは晴れた顔で言った。
「転職、怖くないの?」
マリアが聞く。
アキラは笑う。
「怖いよ。でも、マリアだって毎日必死に生きようとしてるから、勇気貰った」
マリアは少しだけ泣きそうな顔をした。
秋には、小さな部屋で二人は暮らし始めた。
同じベッドでは寝ない。
マリアが安心できるように、寝室も分けた。
マリアにおはようと言い、おやすみと言ってもらえる生活。
「おはよう」が返ってくるだけで、アキラは少し笑ってしまう。
「美人は三日で飽きるって、嘘だねえ」
「なに?」
「私の恋人が綺麗だってこと」
「……アキラもね」
「えっ、ヘヘ……そう?」
そして、冬。
雪の降る日。
区役所の帰り道。
マリアは白い息を吐きながら、小さく呟く。
「……結婚、したんだね」
「うん」
アキラは薬指を見せる。
シンプルな銀の指輪。
マリアは少し照れたように目を逸らした。
「私、ちゃんと奥さんできるかな」
「もう十分すぎるくらいしてる!」
「何もしてないよ」
「私のそばで、生きててくれるじゃない」
満面の笑みで放たれたその言葉に、マリアは立ち止まった。
昔、自分はアキラに会ったら死のうと思っていた。
でも今は違う。
明日も、たぶん区役所の紙とか、洗濯とか、そういうのがある。
それをアキラとやるのだと思った。
雪の中。
アキラがそっとマリアの手を見る。
触れていいか確認するように。
マリアは少し迷ってから、自分から袖を掴んだ。
アキラのコートに白い粒が落ちては消えていく。
マリアはその横で、小さく手を握ったまま歩いていた。
「寒い?」
アキラが聞く。
マリアは少し考えてから、首を横に振る。
「……大丈夫」
それ以上、言葉は続かなかった。
駅の明かりが見えたとき、アキラがぽつりと言う。
「帰ろうか」
「うん」
二人の手は、離れないままだった。




