エピローグ:穏やかな夜
ナツメの実家は、山と田んぼに囲まれた町にあった。
駅から車で二十分。
広い敷地を囲う白い塀と、手入れされた庭木を見た瞬間、マリアは足を止めた。
「うう……帰りたい」
「また?」
運転席から降りたナツメが苦笑する。
「無理。場違い」
「そんなことないって」
「ある。ナツメの実家、お屋敷じゃん……」
「まあ、昔からある家だからな」
ナツメはいつもの男っぽい口調で言うが、どこか落ち着かない様子だった。
マリアは少し意外に思う。
「……ナツメも緊張してるの?」
「してるよ。私だって」
「なんで」
「好きな人連れてくんだから、緊張くらいする」
さらっと言われて、マリアは黙る。
結婚してからも、こういう言葉には慣れない。
ナツメは時々、恥ずかしいことを自然に言う。
「ほら、行こう」
促され、マリアは小さく頷いた。
玄関の扉が開く。
「ナツメ、おかえり!」
最初に出てきたのは姉だった。
柔らかい雰囲気の女性で、ナツメを見るなり笑う。
「あ、本当に連れてきた」
「失礼だな」
「だってあんた昔、『恋愛とか向いてない』って言ってたじゃない」
「うるさい」
その後ろから父親、母親、兄も現れる。
みんな穏やかな顔をしていた。
「初めまして、マリアさん」
母親が優しく頭を下げる。
「今日は来てくれてありがとう」
マリアは緊張で喉が詰まりそうになる。
「……はじめまして」
声が小さく震える。
けれど誰も気にしなかった。
「遠かったでしょう。疲れてない?」
「お茶入れるね」
「荷物持とうか?」
母親は返事を待たずに湯呑みを置き、兄は当然みたいに荷物を持っていった。
マリアはどう反応していいかわからず、返事ができなかった。
夕食は広い和室だった。
たくさんの品のいい料理が並ぶ。
けれど空気は堅苦しくない。
「いやでも、本当に結婚するとは思わなかった」
ナツメの兄が笑いながら言う。
「ナツメ、昔から口悪いけど大丈夫か?」
「兄ちゃんまで何」
「うるせえとか平気で言うしな」
「まあでも、本当はめちゃくちゃ気ぃ遣うんだよな〜」
「おい、もうやめろって!」
姉もくすくす笑う。
「見た目とか言葉遣いで誤解されること多かったのよ、この子」
マリアは隣のナツメを見る。
ナツメは露骨に嫌そうな顔をしていた。
「別に今さらいいだろ、その話」
「でも悔しかったの」
母親が静かに言った。
「昔、近所の犬を拾ってきてね」
「あーやめろその話!」
ナツメが視線を逸らす。
少しだけ目元が赤い。
「だからね」
母親はマリアに微笑んだ。
「マリアさんがいてくれて、本当に良かった」
マリアは目を見開く。
「この子のことを大事にしてくれる人がいて、安心したの」
父親も頷く。
「二人で幸せになってね」
マリアは返事ができなかった。
箸を持つ指だけが少し震える。
味噌汁の湯気が、視界を少し滲ませる。
誰も怒鳴らない食卓が、妙に落ち着かなかった。
こんな家に生まれたかった、と一瞬思ってしまった。
マリアは俯き、小さく呟く。
「……ありがとう、ございます」
ナツメがそっと湯飲みを押しやった。
その優しさが、マリアには心地よかった。
夜、二人は客間に並べられた布団へ入った。
障子の向こうから虫の声が聞こえる。
遠くで車の走る音がした。
それきり、また静かになった。
「……今日は疲れた?」
ナツメが聞く。
「うん、ちょっとだけ」
「ごめんな」
「なんでナツメが謝るの」
「無理させたかも」
マリアはしばらく黙ってから、小さく首を振った。
「……でも、嬉しかった」
「そっか」
「紹介してくれて、ありがとう」
暗闇の中、ナツメが少し笑う気配がした。
「私も嬉しかったよ」
「……」
「家族、めちゃくちゃ喜んでたし」
マリアは布団の端を、指先で何度も撫でる。
「兄ちゃん、まだ私の黒歴史覚えてたな……」
「黒歴史?」
「……中二の頃に、ちょっと」
ナツメが静かに続ける。
「……これからさ」
「え?」
「無理ない範囲で、昔の話とかもしよう」
「昔の話?」
「うん。中学の頃とか」
マリアは少し驚く。
ナツメは昔のことを、あまり口にしなかったから。
「……平気なの?」
「前よりはな」
少し間が空く。
それからナツメは苦笑した。
「今だから言うけどさ」
「私、アキラにめちゃくちゃ嫉妬してたし」
マリアは思わず目を瞬かせる。
「え?」
「だってマリア、アキラの話するときだけ顔違ったから」
「……そんなこと」
「あったよ、実際」
ナツメは笑う。
昔なら笑えなかった話だ。
「だから病気のこと聞かれて、『知らない』って嘘ついた時、あとで自己嫌悪すごかった」
マリアは静かに聞いていた。
「でも今は」
ナツメの声が柔らかくなる。
「今なら、まあ……笑えるし」
マリアは布団を握る手に、少し力を込めた。
「……ナツメ」
「ん?」
「……私、変じゃない?」
聞きながら、自分でも子供みたいだと思った。
けれどナツメは笑わなかった。
「変じゃないよ」
即答だった。
「まあ、私がいるし」
「それでいいだろ」
その言葉に、マリアは目を閉じる。
夜は相変わらず静かで、眠れる保証もないままだった。
それでも、隣の布団の気配だけは消えなかった。
隣の布団からナツメの手が伸びてくる。
昔みたいに待つことはしなかった。
マリアは自分から手を伸ばし、その指先を握る。
障子の向こうで、穏やかな虫の声がまだ響いていた。




