今さら、あなたと16
冬の空気は静かだった。
白い息が溶けていく駅前で、マリアはナツメのコートの袖をそっと掴んで歩いていた。
付き合い始めてから数か月。
劇的に何かが変わったわけではない。
人混みを抜けたあと、マリアは駅前の植え込みの前で立ち止まった。
ナツメは何も言わず、自販機に向かう。
温かい缶ココアを一本だけ買って戻ってきた。
『返事は明日でいい』
『会いたくない日はちゃんと言え』
『生きてるだけで嬉しい』
そんなことを、照れもなく言う。
最初は、冗談を言われているのかと思った。
ただ、そばにいてくれる。
やがてマリアは、ナツメの部屋の合鍵を鞄につけたまま、外に出られるようになっていた。
ある夜。
マリアはナツメの部屋のソファで、ぼんやり湯気の立つ紅茶を見ていた。
「……ねえ」
「ん?」
キッチンから戻ってきたナツメが隣に座る。
マリアは小さく呟く。
「安心するの」
ナツメが目を瞬かせた。
「……何が?」
「ナツメがいると」
沈黙。
次の瞬間、ナツメは片手で顔を覆った。
「だから、急にそういうこと言うなって……」
耳が赤い。
マリアは少し笑った。
昔は、自分が誰かとこんな時間を過ごすなんて思わなかった。
ナツメは中学生の頃からずっと、マリアを好きだった。
隣にいながら、何もできなかった。
それでも目を離せなかった。
再会してからも変わらない。
マリアが今日も病院から帰ってくる。
それだけで安心した。
そして気づけば、マリアの方からナツメの部屋へ来るようになっていた。
ある日。
カフェで三人が向かい合っていた。
アキラがコーヒーを置きながら、にやりと笑う。
「いや〜、ほんと良かった」
マリアが困ったように視線を逸らす。
ナツメはまだ少し緊張していた。
アキラはそんな二人を見比べる。
「……やっとここまで来たかって感じ」
「違っ……」
ナツメが慌てる。
マリアは静かに紅茶を飲む。
アキラは笑った。
「ナツメ、昔からマリアのことになると分かりやすすぎたし」
「マリアもナツメには妙に気を許してたし」
「……そうだった?」
マリアが呟く。
「そうだったよ」
アキラは優しい声で言った。
「マリアの笑顔が増えて、本当に良かった」
その言葉に、マリアは少し目を伏せた。
そして小さく頷いた。
「……うん」
それからしばらくして、最大の問題が残っていた。
ユリカである。
「認めません」
開口一番それだった。
ナツメは頭を抱えた。
ファミレスのテーブル越しに、ユリカがじっと睨んでくる。
「私はマリアと一緒に寝たことあります」
「料理もいっぱい食べてます」
「お風呂上がりも見たことあります」
「はいはい」
ナツメは微妙な顔で返事をする。
「マリアの柔軟剤の匂い知ってます」
「聞いてないから」
ユリカは本気で敵視していた。
だが。
ある時、マリアが静かに言ったのだ。
「……ナツメに酷いことしないで」
その瞬間、ユリカは言葉を失った。
マリアが悲しそうな顔をしていたから。
だから結局、長い沈黙のあと、不機嫌そうに言う。
「……もしマリアを泣かせたら」
ナツメが顔を上げる。
ユリカは腕を組んだ。
「私がもらうから!」
「物騒だな……」
「本気です」
けれど以前みたいな刺々しさは少し減っていた。
それがユリカなりの譲歩だった。
冬物のコートが、いつの間にか薄手になっていた。
マリアは少しずつ眠れる日が増えた。
ナツメは相変わらず不器用だった。
でも毎日、大切にした。
深夜二時。
マリアが眠れないままソファで膝を抱えていると、キッチンから小さく湯の沸く音がした。
ナツメは何度も「愛してる」と言った。
返事は求めなかった。
それから季節はゆっくり巡った。
冬の匂いが薄れて、桜の蕾が膨らむ頃。
薄紅色の花弁が舞う中、小さな式だった。
マリアの負担を考えて、アキラとユリカだけが見守る結婚式。
卓上の白いスイートピーが、風で小さく揺れていた。
マリアは少し緊張した顔で立っていた。
その隣で、ナツメは泣きそうになっている。
アキラが後ろで柔らかく笑っていた。
「おい、なんでお前が泣くんだよ」
ユリカは号泣していた。
「マリアぁぁ……幸せになってぇぇ……」
「お前が一番泣いてるじゃん」
ナツメが呆れる。
誓いの言葉のあと。
ナツメはそっとマリアの手を握った。
昔、公園で触れた時みたいに。
壊れそうなものを扱うみたいに。
マリアは静かに笑った。
中学生の頃、花壇の花を不器用に髪に挿してきた少女は。
四十前になって、ようやく隣で手を握っている。
ナツメの手は、春なのに少し冷たかった。
マリアはその指を、今度は自分から握り直す。
公園のベンチから始まった時間は、まだ続いていく。
握った手は、もう離れなかった。
桜が静かに舞っていた。




