今さら、あなたと15
六月の終わりだった。
空は曇っているのに、空気だけが夏のように暑かった。
病院の帰り、公園の木々は濃い緑に変わっていて、蝉が遠くで鳴き始めている。
マリアはベンチに座ったまま、自分の指先を見つめていた。
ナツメは隣で缶コーヒーを開ける。
いつも通り。
缶の水滴が、指にじっとり張りつく。
マリアはそれを親指で拭って、また黙った。
ナツメの「好きだった」が、まだ耳の奥に残っている。
再会してすぐ、ナツメは言ったのだ。
『ずっと好きだった』
あの時のマリアには、何も返せなかった。
誰も必要なかった。
だからナツメにも、答えを渡さなかった。
でも。
病院帰りに何も聞かず、缶コーヒーを渡して。
一人になりたい日は、短いメッセージだけ残して帰る。
ナツメは、一度も手を伸ばしてこなかった。
マリアはゆっくり顔を上げた。
「……ナツメ」
「ん?」
「話が、ある」
ナツメが少しだけ姿勢を正す。
マリアは息を整えた。
やっぱり、怖かった。
言葉にするのが。
誰かの気持ちに応えることが。
けれど、もう逃げたくなかった。
「前に……好きって、言ってくれたでしょ」
ナツメの瞳が揺れる。
「……ああ」
「返事、ちゃんとしたい」
ざあ、と音がする。
鮮やかな緑の木の葉が、風に吹かれてベンチに飛んできた。
マリアは膝の上でその葉をゆるく握りしめる。
「私は今でも、人を好きになるとか、よく分からない」
「恋人らしいこととか、たぶん上手くできないし」
ナツメは何も言わない。
ただ真剣に聞いている。
急かされないだけで、言葉が喉まで上がってくる。
「でも」
声が震える。
それでもマリアは、言葉を紡ぐ。
「今のナツメのそばにいるのは、嫌じゃない」
ナツメの息が止まる。
「……もし、一生」
「清い関係のままでいいなら」
ナツメが黙ったままだと、それだけで怖かった。
“やっぱり無理だ”と言われる気がした。
それでも。
今の自分に差し出せるものを、ちゃんと渡したかった。
「付き合える、……と思う」
沈黙。
蝉の声だけが響く。
ナツメは動かなかった。
やがて。
ぐしゃり、と顔を歪めた。
「……は?」
かすれた声。
マリアは少し不安になる。
「ごめん……嫌だった?」
次の瞬間。
ナツメは片手で顔を覆った。
肩が震えている。
「ちが……っ」
声が壊れる。
「そんなわけ、ないだろ……」
ぽたり、と雫が落ちた。
ナツメは泣いていた。
声を殺そうとしているのに、涙だけが止まらなかった。
マリアは目を見開く。
「ナツメ……」
「……っ、私」
「報われる日とか、来ると思ってなかった」
涙混じりの声。
「ずっと、お前が生きてればそれでいいって」
「それだけでいいって思ってたのに……」
ナツメは何度も目元を拭う。
けれど涙は止まらない。
「マリアに、無理はっ、させない」
震える声で言う。
「私は、お前が嫌なことは、したくないっ」
不器用な言葉たち。
それでも、マリアはちゃんと受け取った。
落ち着かなくて、手の中にある葉をくしゃりと片手で丸めてみる。
ナツメは泣きながら笑った。
「ありがとう、マリア」
そして、小さく。
やっと言える、という感慨を込めて呟く。
「……好きだ」
「ずっと」
その言葉を聞いた瞬間、息が少し詰まった。
苦しい痛みではなかった。
ずっと持っていた木の葉を、ひらりと風に手放す。
マリアはしばらく迷いながら、そっと手を伸ばした。
ナツメの袖を摘まむ。
それだけの小さな触れ方。
けれどナツメはまた泣きそうな顔をした。
「……泣きすぎ」
「うるさい……」
「ふふ」
「誰のせいだと思ってんだ」
マリアは少し笑う。
その笑顔を見て、ナツメは泣いたまま笑った。
マリアの指先には、青葉の匂いが残っていた。
紫陽花の咲き始める季節の匂いだった。




