今さら、あなたと14
雨上がりの夕方だった。
窓を少しだけ開けた部屋に、湿った風が入ってくる。
マリアは古びたソファに座りながら、ぼんやりと外を見ていた。
テーブルには飲みかけの薬と、水の入ったコップ。
眠れない夜を越えた日は、頭の中が白く濁る。
何も考えたくないのに、ふとした拍子に昔の記憶だけが浮かび上がる。
花壇。
校舎裏。
風に揺れる小さな花。
『外すなよ』
ぶっきらぼうな声。
中学生のナツメが、花壇から勝手に花を一輪取って、マリアの髪に挿した。
驚いて固まるマリアに、ナツメは少し目を逸らしながら言ったのだ。
『せっかく似合ってるんだから』
思い出した瞬間、マリアはゆっくり瞬きをした。
「……なんで今さら」
マリアは額を押さえた。
花の名前さえ知らずに、忘れていたのに。
数日後。
病院帰りの公園。
ナツメはいつものように缶コーヒーを二本持って現れた。
「珍しく起きてる顔してんな」
「失礼」
「いや、褒めてる」
ベンチに座る。
少し沈黙。
マリアは何気ないふりをして言った。
「……中学の時のこと、思い出した」
ナツメの肩がぴくりと動く。
「どんなことだよ」
「花壇の花」
「…………」
「あったよね」
沈黙。
ナツメは缶コーヒーを開ける。
ぷし、と間抜けな音。
「……若気の至りみたいなもんだから」
「中学生だったけど」
「うるさいな……」
ナツメは缶を口元に運ぶ。
けれど飲む前に止まった。
「……忘れろって」
マリアは少しだけ珍しそうに見つめる。
「急に何思い出してんだよ……」
「分からない。勝手に浮かんできた」
「忘れてくれ」
「無理」
ナツメは深くため息をついた。
「似合ってるって言ってた」
「言うな」
「なんで?」
「……恥ずかしいから」
マリアは少し黙る。
それから、ぽつりと呟いた。
「……そういえば」
「今度は何だ」
「再会した時も、好きって言ってたね」
ナツメの動きが止まった。
空気が静まる。
マリアは視線を落としたまま続ける。
「あの時、ちゃんと返事しなかった」
「……別にいいって」
「うん」
あの頃は、誰かに好かれること自体が怖かった。
もう誰も必要ないと、ユリカさえ遠ざけた。
それでも再会したナツメは、マリアが帰ろうとすれば引き止めたことは一度もない。
マリアがパニックを起こしても、悲しそうな顔をするだけで勝手に帰らなかった。
「……ナツメ」
「なんだよ」
「なんで、そんなに優しいの」
ナツメは少し考えてから、困ったように笑った。
「……大切、だからだろ」
何かを飲み込んで、無理に出したような返事。
ナツメは視線を逸らしたまま続ける。
「放っとくと、どっか行きそうで怖ぇんだよ」
「……悪口?」
「違う」
「じゃあ何」
「……知らねえよ」
少し笑う。
その笑い方が昔と同じで、マリアは一瞬中学の美術室を思い出す。
真っ白なキャンバスの前で動けない自分。
『また何も描けてねえな』
そう言って隣に座る制服姿のナツメ。
マリアは指先に少し力を入れた。
缶コーヒーの水滴が、ベンチに落ちる。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
それでも嫌ではなかった。
再会した日の言葉が、ふと胸の奥をかすめる。
けれど、その続きを考えようとすると息が詰まった。
そして、同時に思う。
こんな壊れた人間が、誰かの想いに応えていいのだろうか、と。
マリアは小さく俯いた。
ナツメはそれ以上何も言わなかった。
ナツメの缶コーヒーを飲む音だけが、隣で小さく続いていた。
それが、今日は嫌じゃなかった。
公園のベンチは相変わらず固くて冷たい。
それでもマリアは、もう少しだけここにいたいと思った。




