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三十八歳、触れないまま恋をする〜重すぎる愛と、静かな恋の間で~  作者: ail38


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今さら、あなたと10

ナツメは、公園のベンチで缶コーヒーを弄んでいた。


夕方六時。

病院帰りのマリアが来るまで、あと十分くらい。


六時前になると、ナツメは先に缶コーヒーを買うようになっていた。


マリアは相変わらず眠れないし、食べられない。

それでも最近は、


「今日はちょっと眠れた」


「コンビニ行けた」


そんな話を聞けるようになっていた。


その時。


「ちょっと、すいません」


不意に声をかけられた。

顔を上げると、知らない若い女が立っていた。


歳は大学生くらい。

真っ直ぐな長い黒髪が、闇のように背中で揺れているのが印象的だった。


ナツメは軽く眉を顰める。


「誰?」


女は答えず、じっとナツメを見た。

その視線には妙な熱があった。

責めるみたいな目だった。

なのに、どこか泣きそうにも見える。


ナツメは無意識に身体をこわばらせる。


「……マリアと会ってる人だよね」


その名前が出た瞬間、ナツメの警戒が深くなる。


「だから、お前は誰だって」


女は少しだけ唇を噛んだ。

それから静かに言う。


「私は、ユリカ」


知らない名前だった。

でも、その響きに妙な引っ掛かりを覚える。


ユリカはベンチの前に立ったまま、ナツメを見下ろした。


「あなた、最近マリアといるよね」


「……まあ」


「どういうつもり」


棘のある声。

ナツメはため息をつく。


「質問多くね?」


ユリカは無視した。


「マリア、ちゃんと食べてる?」


ナツメは目を細める。


「……なんでお前がそれ気にすんの」


「知ってるから」


即答だった。

ユリカの瞳が揺れる。


「マリア、眠れない日は朝までスマホばかり見てるの」


ユリカは俯いたまま言う。


「部屋が真っ暗になっても、電気もつけずに」


ナツメの表情が変わる。


マリアを知っている。

それもかなり近い人間だ。


ユリカは続ける。


「牛乳飲むとお腹痛くなるのに無理して飲むし」


「カフェオレなら平気なくせに」


「雨の日は頭痛がひどくなる」


「知らない番号から電話が来るだけで固まる」


ナツメは黙る。

ユリカの口元が、ほんの少しだけ歪む。


「あなたより、私の方がマリアを知ってる」


その言葉に、ナツメの胸がざらりとした。

年下のくせに、妙に踏み込んでくる。


ナツメは低く聞く。


「……家族か」


「そう」


少しだけ間を置いて、


「家族だった」


切なそうに、ユリカは呟く。


「そっか」


そこでようやく繋がった。


マリアが最近、少しだけ話していた。

姉夫婦に子どもを押しつけられていたこと。

中学生くらいまで育てていたこと。


たぶん、この子だ。


ナツメは缶コーヒーを握り直す。


「なら尚更、なんで今さら来てんだよ」


ユリカの顔がこわばった。


「……会わない約束を、したから」


「は?」


声が震える。


「依存して、困らせて……だから、大人になるまで会わないって決めた」


ナツメは思わず眉を寄せた。


ユリカは耐えきれないというように俯く。


「でも」


その声には隠せない気持ちがあった。


「あなたといるマリア、少し安心した顔してたから!」


ナツメは息を止める。

ユリカは俯いたまま、苦しそうに笑った。


「見たことなかった」


胸の奥が、妙に落ち着かなかった。

優越感ではない。

むしろ怖かった。


マリアは今まで、誰にも寄りかからなかった。

最近のマリアは、隣で少しだけ肩の力をぬく。

それを見るたび、ナツメは余計なことを言えなくなる。

もしまた壊したら、全部台無しだ。


ナツメは視線を逸らす。


「安心なんかしてねぇよ、あいつ」


ユリカは即座に返す。


「してるよ」


断言だった。


「……マリア、人から何か受け取るの嫌いなのに」


ナツメは缶コーヒーを傾ける。

少しぬるかった。


ユリカの目が少し潤む。


「……いいな」


「私には、もうそうしてくれない」


ナツメは俯くユリカから視線を逸らす。


その時だった。


「……何してるの」


聞き慣れた声。

二人同時に振り返る。


マリアが立っていた。


薄いコートを羽織って、波打つような栗色の髪は顔のそばで纏められていた。

病院帰りのせいか、疲れた顔をしている。


そして、ユリカを見た瞬間、目を見開く。


「……ユリカ?」


空気が止まる。


ユリカは明らかに動揺した。

見つかるつもりじゃなかった。


マリアは困ったように眉を下げた。


「ご、ごめんなさい……」


ユリカの身体が震える。


「偶然で……」


嘘だとわかる。

でもマリアは責めなかった。

ただ静かに言う。


「風邪引くよ」


ユリカは唇を強く噛んだ。


ナツメは隣で黙っていた。


訳のわからない女子大生。

でも今ならわかる。

マリアを見つめるユリカの目が、少し前の自分と重なった。


誰も次の言葉を見つけられない。

夕方の風だけが、三人の間を静かに通り抜けていった。

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