今さら、あなたと9
夕方の公園は、まだ少し冷えていた。
マリアはベンチに座って、缶スープを両手で持っている。
隣にはナツメ。
春が近いはずなのに、マリアの指先はまだ白く冷たかった。
「今日はちょっと食えた?」
ナツメが聞く。
「……パン半分」
「上出来」
「基準低すぎ」
そう返したあと、マリアはすぐには黙らなかった。
「水だって、飲んでるからね」
それだけで、ナツメは少し安心する。
沈黙が続いても、マリアは立ち上がらない。
ナツメは、次の約束を無理に決めようとしない。
帰る時間も、いつもマリアに任せていた。
それがマリアには不思議だった。
「そういや」
ナツメが缶コーヒーを揺らす。
「この前会った友達、また連絡きた?」
マリアは少し迷ってから頷いた。
「……うん」
「そっか」
ナツメはそれ以上聞かない。
缶コーヒーを握る手には、どうしても力が入る。
病院の帰りに会う。
缶スープを渡す。
少しだけ言葉を交わす。
今は、それを繰り返すしかなかった。
今日もマリアがここに来た。
ベンチに座った。
スープを飲んだ。
それでいいと思えた。
その時だった。
少し離れた遊歩道で、足を止める影があった。
大学帰りのユリカだった。
イヤホンを外しかけた手が止まった。
ベンチに座るマリアが見えた。
――マリア。
会わない約束をした。
もうマリアを傷つけたくなかったから。
以前の自分は酷かった。
「結婚したい」
「ずっと一緒にいて」
「マリア以外いらない」
返事に困るまで、何度も「一緒にいたい」と言ってしまった。
マリアは優しいから拒絶しきれなくて、どんどん消耗していった。
だからユリカは決めたのだ。
ちゃんと大人になるまで会わない、と。
マリアの意思を尊重できる人間になるまで。
でも。
今、ベンチの隣に知らない女がいる。
短髪。
男っぽい服装。
自然な距離感。
その女は、マリアの隣に当たり前みたいに座っていた。
ユリカの胸がぐちゃりと潰れる。
誰なの。
マリア、他人と会ってるの。
しかも、マリアが少し笑っていた。
ほんの少し。
でもユリカは知っている。
マリアは無理に笑うことはあっても、あんなふうには笑わない。
ユリカは思わず木陰へ隠れる。
見てはいけないと思った。
でも視線が離せない。
ナツメが何か言う。
マリアが小さく返す。
その空気は静かだった。
恋人には見えなかった。
でも、他人にも見えなかった。
ユリカは唇を噛む。
自分が座りたかった場所には、もう別の誰かが座っていた。
昔、マリアの家で暮らしていた頃。
マリアはいつも疲れた顔をしていた。
姉夫婦に無理矢理育児を押しつけられて、それでもユリカにおいしいご飯を作ってくれた。
「おいしい?」と不器用に笑う顔が好きだった。
だからユリカはマリアだけを見ていた。
学校であったことも、友達の話も、最後には全部マリアへ話したくなっていた。
マリアの身体が動かなくなっていくのに、気づかないふりをした。
ユリカは木の陰で震える。
視界の端で、ナツメの肩がマリアに少し近づく。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
自分の知らないマリアを知っている顔をしている。
身体の震えが止まらない。
その時、マリアがふと俯いた。
ナツメは何も言わず、缶スープを押し付けるみたいに渡す。
「冷めるぞ」
「……ん」
マリアは素直に受け取った。
ユリカは目を見開く。
あんなふうに他人から何かを受け取るマリアを、初めて見た。
昔のマリアは、人に頼らなかった。
それなのにマリアは今、差し出された缶を躊躇わず受け取っていた。
ユリカは耐えきれず、その場から離れた。
歩きながら、息が乱れる。
悔しい。
会わないって決めたのは自分なのに。
もう会わない方がいい。
何度もそう言い聞かせたのに。
なのに。
本当はずっと、ユリカだけのマリアでいてほしかった。
スマホを強く握る。
今すぐ連絡したい。
「その人誰?」って聞きたい。
でもできない。
ユリカは立ち止まり、俯く。
涙が落ちた。
「……やだ」
「マリア、ねえ、私を見て……」
声が震えた。
ベンチで少し笑ったマリアの顔が、頭から離れなかった。
一方、公園のベンチでは。
ナツメが何気なく周囲を見た。
「……?」
今、誰かいた気がした。
でも人影はもうない。
マリアがぼんやり聞く。
「どうしたの」
「いや、別に」
ナツメは視線を戻す。
マリアは気づいていない。
誰かが自分を見ていたことを。
マリアは何も知らないまま、少し冷めたスープを両手で包んでいた。




