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三十八歳、触れないまま恋をする〜重すぎる愛と、静かな恋の間で~  作者: ail38


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今さら、あなたと8

カーテンを閉めた部屋で、マリアは何度もスマホを開いていた。


『また今度ご飯でも行こう』


その短いメッセージを読むたび、薬を飲む手が止まる。


おかしい。

自分は、アキラに会えたら終わるつもりだった。


なのに、アキラも苦しんでいると知ってしまった。


仕事がうまくいかないこと。

あまり眠れていないこと。

SNSには書けないこと。


あのときアキラは、笑いながら言っていた。


「毎日向いてないなーって思う」


笑いながら言っていたのに、そのあと少しだけ黙った。

だから迷ってしまった。


何も言わず消えたら、アキラはきっと自分を探す。

そんな想像をしてしまう。


マリアは膝を抱える。


「……やだ、な」


消えたいのに。

それでも誰かを傷つけるのは怖かった。

期待されると、うまく息ができなくなる。

昔からそうだった。


スマホが震える。

マリアの肩が一瞬こわばる。


通知。


――ナツメ

『病院帰り、今月は水曜な』


短い文。

いつもの連絡。


「……ナツメか」


マリアはぼんやり画面を見つめる。


ナツメは、昔よりずいぶん柔らかくなった。

最近のナツメは、前みたいに突然部屋へ来ようとはしない。


病院の帰り、公園のベンチで少し話す。

今はそれだけだった。


それでも、毎月ちゃんと連絡してくる。


その存在が最近、少し怖かった。

優しすぎるから。


その頃、ナツメは会社の自販機前で缶コーヒーを飲んでいた。

アキラとのやり取りを思い出す。


『何か重い病気なの?』


胸がざらつく。


ナツメは缶を握り直した。

ぬるくなったコーヒーが、妙に苦かった。


マリアはアキラに会うために、自分を無理やり整えた。

服を選んで。

髪を整えて。

化粧までして。


自分と会う時は、そんなこと気にもしないのに。


ナツメは苦笑する。


「……敵わねぇな」


昔からそうだった。

マリアはアキラを見る時だけ、少し目が柔らかかった。

安心しているみたいな顔をした。

自分には向けない顔。


それでも。

病院の日に迎えに行けるのは、今は自分くらいだった。


アキラは遠い。

過去の人間だ。


でもナツメは、今のマリアを知っている。


眠れない夜。

睡眠薬の量。

何も食べられない日。


全部。


部屋へ行こうとすれば、またマリアを怯えさせる気がした。

ナツメは、公園で別れたあとは追いかけない。

そう決めていた。


まずは会話を増やす。

それだけを目標にする。


病院の日以外にもマリアと会えるだけで、満足だった。


次の病院の日。

公園のベンチで、マリアは俯いていた。


ナツメは缶スープを二本持って近づく。


「おう」


「……ん」


マリアの声は小さい。


ナツメは隣に座って、コーンスープを渡した。


「今日は食えそう?」


「ちょっとなら」


「そうかそうか」


マリアが少し眉を寄せる。


「子ども扱いしないで」


「してねぇよ。前はスープも飲めなかっただろ」


ナツメは笑った。


沈黙が続いても、今日はマリアが立ち上がらない。

マリアが完全に心を閉ざしていた頃は、隣にいるだけで言葉が出てこなかった。


今は違う。

少しだけ、言葉が続く。


ナツメは缶を揺らしながら言う。


「最近、外出てるだろ」


「……なんで」


「なんか、外の匂いする」


マリアは変な顔をした。


「何それ……」


「なんとなく」


本当に少しだけ、マリアが笑った。

ナツメはその瞬間を見逃さなかった。

たったそれだけで、嬉しくなる。


「……友達に会った」


マリアがぽつりと言う。

ナツメは缶を握る手に力を込める。


「へえ」


「中学の時の」


「そっか」


それだけ返す。


マリアは缶を両手で握りしめたまま呟く。


「ちゃんと生きてた」


ナツメは黙って聞く。


「電車乗って、仕事行って、ちゃんと毎日続けてた」


マリアは缶を見つめたまま言う。


「私、それができなくなったから」


「止まっているみたいに、感じた」


ナツメはすぐには答えなかった。

缶を傾けて、少しぬるくなったスープを飲む。


「……止まってても別にいいだろ」


マリアは顔を上げる。


「……よくないよ」


「なんで」


「みんな進んでる……」


ナツメは少し考えてから、ぶっきらぼうに言った。


「私、マリアが今日ここに来ただけで十分だけど」


マリアは目を瞬かせる。


「……え?」


心底不思議そうにナツメを見つめる。


「病院行って、ここ来て、缶スープ飲んでる。今日はそれでいい」


そんな低い基準でいいのか、とマリアは思った。

でも、少しだけ呼吸が楽になる。


ナツメは続ける。


「会話も前より増えたしな」


「……そう?」


「前なんか、お前五分で帰ってたぞ」


マリアはぼんやり思い出す。

確かに最初の頃は、ナツメと目を合わせることすら苦痛だった。

なのに今は、こうして隣に座っている。


ナツメは笑う。


「だから、まあ。ゆっくりでいいんじゃね」


ナツメはそれ以上何も言わなかった。

ただ隣で缶を傾けていた。


マリアは視線を落とす。


相変わらず、夜はうまく呼吸ができなくなる。

それでも。


マリアは缶の温かさを両手で確かめながら、小さく息を吐く。


「……来月も来るね」


ナツメはわざと視線を逸らしてから、返事をする。


「おう、待ってる」


ナツメは慌てて缶を口に運んだ。

顔が緩むのを、隠しきれなかった。

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