今さら、あなたと6
駅前の古本屋には、土曜の午後によく来る。
そんな投稿を、マリアは何度も読み返した。
だからマリアは、三週続けて同じ時間の電車に乗った。
アキラがSNSに載せていた喫茶店。
休日によく行くらしい駅前の古本屋。
何週間も投稿時間を眺めていた。
そうして土曜の午後、その街へ向かった。
電車の窓に映る自分は、知らない女みたいだった。
久しぶりにアイロンを使おうとして、軽く火傷してしまった小指。
丁寧に巻いた栗色の髪。
薄く引いたアイライン。
白い花柄のブラウス。
窓に映る自分は、それでもちゃんと外へ出かける人に見えた。
マスカラの匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
それだけで、今日はもう十分疲れていた。
昨夜も眠れなかった。
朝は何も食べられなかった。
心臓だけが壊れそうなくらい鳴っている。
――会えたら、そのあとで。
マリアは鞄の紐を握り直した。
古本屋の入口で、マリアは立ち止まる。
紙の匂い。
昔、アキラとよく図書室へ行った。
静かな場所が好きだった。
人の声が少ないから。
マリアがぼんやり棚を見ていると、不意に後ろから声がした。
「……え?」
その瞬間、全身が硬直した。
ゆっくりと振り返る。
アキラがいた。
肩までの黒髪。
本を抱えたまま立ち止まる癖まで、昔のままだった。
「マリア?」
マリアは必死に口角を上げる。
「あ……久しぶり」
声が震えないようにするので精一杯だった。
アキラは目を丸くしたあと、少し笑った。
「うわ、すごい。偶然じゃん」
偶然、その言葉に胸が痛む。
でもマリアは笑顔を崩さなかった。
「そ、そうだね」
アキラは昔と変わらなかった。
距離の詰め方が自然で、押しつけがましくない。
「元気にしてた?」
返事を考えるだけで、少し時間がかかった。
「……まあまあ」
嘘だった。
けれど、もう普通のふりは慣れていた。
二人は近くの喫茶店へ入った。
店の奥では、小さくジャズが流れていた。
氷の当たる音だけが、妙によく聞こえる。
窓際の席。
アキラはコーヒーを飲みながら、「懐かしいね」と笑う。
マリアはその顔を見つめた。
会いたかった人。
ずっと。
画面越しに泣きながら名前を呼んでいた相手。
でも実際に会ってみると、不思議だった。
笑う前に、一拍だけ間がある。
その癖を見て、マリアは少しだけ安心してしまった。
目の下に薄い隈がある。
笑うタイミングが少し遅い。
マリアは気づいてしまった。
この人も無理をしている。
アキラがストローを弄びながら言う。
「仕事さぁ……最近ちょっと、本当にしんどくて」
マリアは静かに顔を上げた。
SNSでは、そんなこと書いていなかった。
「そう……なんだ」
「うん。なんか人間関係めんどくさくて」
アキラは苦笑する。
「SNSには楽しいことしか書いてないけど」
その言葉に、マリアの瞳が大きく揺れた。
「ほんとは全然うまくいってない」
アキラは窓の外を見る。
「毎日怒られるし。向いてないのかなって思う」
マリアは何も言えなかった。
栄養ドリンクの写真。
『肩が終わった』という短い投稿。
あれは冗談半分じゃなかったのだと、今さら気づいた。
アキラは照れたように笑う。
「なんかごめん。久々なのに暗い話」
「……ううん」
マリアは小さく首を振った。
「仕事、どんな感じなの?」
「営業。まあ向いてなかったわ」
アキラは肩をすくめる。
「マリアは?」
心臓が跳ねた。
本当のことなんか言えない。
働けていないこと。
病院へ通っていること。
毎日死にたいこと。
全部隠した。
「……事務職」
気づけば嘘をついていた。
「へえ、なんか似合う」
似合わない。
でもマリアは笑った。
「まあ、淡々としてるよ」
アキラはため息をつく。
「いいなぁ。営業向いてる人ってメンタル強すぎる」
マリアはその言葉を聞きながら思う。
違った。
アキラだって苦しい。
なのに生きている。
普通の顔をして。
マリアはコーヒーカップを握りしめた。
「あのさ」
「ん?」
「ちゃんと寝ている?」
アキラが驚いた顔をする。
「え、なんで?」
「……顔色が悪いから」
アキラは苦笑した。
「最近、あんま寝れてないかも」
その瞬間。
マリアの胸が、痛いほど締めつけられた。
ちゃんと眠れていない人の顔だった。
マリアは視線を落とす。
それを知っている。
眠れない夜。
誰にも言えない苦しさ。
平気なふり。
アキラも、人知れず何かと戦っている。
マリアはコーヒーカップを握りしめた。
SNSの向こう側にいた「普通の人」が、少しずつ輪郭を持ちはじめる。
予定なんて、もう作るつもりはなかった。
来週なんて、考えないようにしていた。
それなのに。
来週もこの店に来るアキラを、想像してしまった。
来週。
そんな先のことを考えたのは、久しぶりだった。
もし、自分が消えたら。
アキラはまた、何も知らないまま生きていく。
中学時代、マリアが友人として特別好きだったことも。
その存在に救われていたことも。
画面越しに毎晩泣いていたことも。
全部知らないまま。
マリアは苦しくなった。
今、目の前にいるアキラは、思っていたよりずっと平凡な人間だった。
ただ毎日、繰り返される普通をこなしている。
それは昔の自分とほんの少し似ていた。
アキラが笑う。
「でもマリア、昔と変わんないね。ずっと綺麗」
そう言われて、マリアは無意識に袖を握った。
昨夜、吐くほど泣いた手だった。
睡眠薬でぼろぼろの身体。
毎晩泣き腫らした目。
死ぬことばかり考える頭。
それを必死に嘘で塗り固めているだけ。
なのにアキラは気づかない。
「……ありがとう」
マリアは笑った。
コーヒーカップの中身は、いつの間にか空になっていた。
窓の外では、午後の光が少しずつ傾きはじめている。
来週も、この店は開いているのだろうか。
そんなことを考えた自分に、マリアは少しだけ戸惑った。




