今さら、あなたと5
夜が来るたび、マリアはアキラのSNSを開いた。
もう習慣だった。
眠れない午前二時。
薬が効かない午前四時。
涙で頭がぼうっとする明け方。
暗い部屋の中で、スマホの光だけが生きていた。
アキラは相変わらず普通だった。
文庫本の写真には、金属製の花柄のしおりが挟まっていた。
中学時代、お気に入りだと言って見せてくれたしおりだった。
喫茶店の投稿には、窓際のクリームソーダと、小さく映り込んだ誰かの指先。
家族で行く喫茶店のクリームソーダが好きだと、笑顔で言っていた。
休日には、少し焦げたクッキーの写真。
『見た目は失敗』
と書いてあるのに、リプ欄には「美味しそう」が並んでいた。
お菓子作りなどしたことがないと、昔は言っていたのに。
『繁忙期やばい。肩が終わった』
そんな短い文章のあとに、コンビニの栄養ドリンク。
そういう細部を見るたび、マリアは泣きたくなった。
昔と同じようで、違う。
そんな生活が、ちゃんと続いている。
「どうしてかな……」
かすれた声が漏れる。
「どうして私は、こうなっちゃったんだろ……」
アキラは知らない。
中学の頃、自分がどれほど救われていたか。
教室で息ができなくなる日も、アキラが「図書室行く?」と声をかけてくれるだけで、少しだけ世界が静かになった。
あれは友情だったのだと思う。
でも、マリアにとってはそれ以上だった。
遠い憧れ。
壊れかけた心でも、隣に座っていられた。
アキラだけは、怖くなかった。
アキラが今、「普通に幸せ」でいることが苦しかった。
マリアは美しい思い出だけ抱えて、座り込んだまま動けずにいる。
アキラの時間だけが、ちゃんと前へ進んでいる。
マリアはまだ、あの図書室に置き去りのままだった。
マリアは毎晩、画面越しにアキラへ話しかけた。
「ねえ、アキラ」
もちろん返事はない。
「私、まだ苦しいよ」
スマホを抱き締めながら泣く。
「毎日消えたいよ」
アキラは知らない。
知らないまま眠っている。
それが寂しかった。
でも同時に、安心感もあった。
こんな壊れた自分を見せたら、きっと困らせる。
嫌われる。
だから中学時代も何も言えなかった。
同じ話題で笑って、同じ本を好きだと言った。
本当は毎日限界だったのに。
「……あれ?」
ある夜、アキラの投稿に映っていた本屋を見て、マリアは気づいた。
住んでいる場所が、今の自分なら電車で行ける距離だと。
その瞬間、マリアは思わず地図アプリを起動していた。
会って、どうするのかも決めていないのに。
マリアは数日悩んだ。
やめた方がいい。
怖がらせるだけ。
今さら何を言うの。
頭の中で何度も声が響く。
でも、会いたかった。
『最後に一度だけ』
そう考えた瞬間、ふと気づく。
その先を、自分が何も想像していないことに。
来週の予定も。
来月の通院日も。
その先には続いていなかった。
不思議と冷静だった。
ずっと考えていた。
消えたいと。
でも怖かった。
苦しいのも怖い。
失敗するのも怖い。
だから今日まで生き延びてしまった。
けれど。
もしアキラに会えたら。
もう終わってもいい気がした。
「……会えたら、死のう」
呟いた声は、驚くほど静かだった。
胸の奥のざわつきが、少しだけ遠のく。
そう決めた瞬間だけ、少し楽になった。
それからマリアは少しずつ準備を始めた。
まず髪を切った。
何ヶ月も放置して傷んだ毛先を、セルフカットで整える。
美容院に行くのは怖かった。
失敗しながら、なんとか長さだけ揃えた。
昔の自分とは程遠い姿。
それでもマリアは、なんとか“普通”に見えるよう努力した。
服を買った。
化粧品を引っ張り出した。
何度もメイクを練習した。
吐き気がした。
途中で息が苦しくなって、床に座り込む日もあった。
それでもやめなかった。
アキラには、綺麗な自分で会いたかった。
何年も使っていなかったファンデーションはひび割れていた。
口紅も、少しだけ油の匂いがした。
鏡の前で何度も笑ってみる。
口角を上げるたび、頬だけが先に引きつった。
ある日、病院帰りの公園で、ナツメが言った。
「……なんか顔色悪くね?」
マリアは一瞬びくりとした。
「普通だよ」
「普通に見えねぇ」
ナツメの目は鋭い。
ナツメは昔から、そういうところがある。
見つけなくていいものまで見つける。
マリアは視線を逸らした。
「最近、出かけてるから疲れただけ」
「どこに」
「……どこでもいいでしょ」
ナツメは少し黙った。
「そっか」
それだけ。
でも別れ際、ナツメは珍しく低い声で言った。
「あんまり、無理すんなよ」
マリアは返事ができなかった。
無理をしている。
限界だった。
ナツメと別れたあとも、胸のざわつきは消えなかった。
夜になるとアキラのSNSを見る。
笑顔。
本。
日常。
そのたびに思う。
この人は光の側にいる。
私は違う。
もう戻れない。
マリアは鏡を見る。
作った笑顔。
丁寧に塗った口紅。
昔みたいに見えるよう何度も角度を探す。
でも目だけは駄目だった。
どれだけ取り繕っても隠せない。
それでも会いたかった。
最後に一度だけ。
「アキラ」
夜の部屋で名前を呼ぶ。
「私、ちゃんと普通に見えるかな」
返事はない。
布団のそばには、新しいブラウスが畳まれていた。
白い生地には、小さな花柄。
中学の頃、アキラに「似合いそう」と言われた色だった。




