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三十八歳、触れないまま恋をする〜重すぎる愛と、静かな恋の間で~  作者: ail38


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今さら、あなたと5

夜が来るたび、マリアはアキラのSNSを開いた。

もう習慣だった。


眠れない午前二時。

薬が効かない午前四時。

涙で頭がぼうっとする明け方。


暗い部屋の中で、スマホの光だけが生きていた。


アキラは相変わらず普通だった。


文庫本の写真には、金属製の花柄のしおりが挟まっていた。

中学時代、お気に入りだと言って見せてくれたしおりだった。


喫茶店の投稿には、窓際のクリームソーダと、小さく映り込んだ誰かの指先。

家族で行く喫茶店のクリームソーダが好きだと、笑顔で言っていた。


休日には、少し焦げたクッキーの写真。

『見た目は失敗』

と書いてあるのに、リプ欄には「美味しそう」が並んでいた。

お菓子作りなどしたことがないと、昔は言っていたのに。


『繁忙期やばい。肩が終わった』

そんな短い文章のあとに、コンビニの栄養ドリンク。


そういう細部を見るたび、マリアは泣きたくなった。

昔と同じようで、違う。

そんな生活が、ちゃんと続いている。


「どうしてかな……」


かすれた声が漏れる。


「どうして私は、こうなっちゃったんだろ……」


アキラは知らない。

中学の頃、自分がどれほど救われていたか。

教室で息ができなくなる日も、アキラが「図書室行く?」と声をかけてくれるだけで、少しだけ世界が静かになった。


あれは友情だったのだと思う。

でも、マリアにとってはそれ以上だった。

遠い憧れ。


壊れかけた心でも、隣に座っていられた。

アキラだけは、怖くなかった。


アキラが今、「普通に幸せ」でいることが苦しかった。

マリアは美しい思い出だけ抱えて、座り込んだまま動けずにいる。


アキラの時間だけが、ちゃんと前へ進んでいる。

マリアはまだ、あの図書室に置き去りのままだった。


マリアは毎晩、画面越しにアキラへ話しかけた。


「ねえ、アキラ」


もちろん返事はない。


「私、まだ苦しいよ」


スマホを抱き締めながら泣く。


「毎日消えたいよ」


アキラは知らない。

知らないまま眠っている。


それが寂しかった。

でも同時に、安心感もあった。


こんな壊れた自分を見せたら、きっと困らせる。

嫌われる。


だから中学時代も何も言えなかった。

同じ話題で笑って、同じ本を好きだと言った。

本当は毎日限界だったのに。


「……あれ?」


ある夜、アキラの投稿に映っていた本屋を見て、マリアは気づいた。

住んでいる場所が、今の自分なら電車で行ける距離だと。

その瞬間、マリアは思わず地図アプリを起動していた。

会って、どうするのかも決めていないのに。


マリアは数日悩んだ。


やめた方がいい。

怖がらせるだけ。

今さら何を言うの。


頭の中で何度も声が響く。

でも、会いたかった。


『最後に一度だけ』


そう考えた瞬間、ふと気づく。

その先を、自分が何も想像していないことに。

来週の予定も。

来月の通院日も。

その先には続いていなかった。


不思議と冷静だった。

ずっと考えていた。

消えたいと。


でも怖かった。


苦しいのも怖い。

失敗するのも怖い。


だから今日まで生き延びてしまった。

けれど。


もしアキラに会えたら。

もう終わってもいい気がした。


「……会えたら、死のう」


呟いた声は、驚くほど静かだった。

胸の奥のざわつきが、少しだけ遠のく。

そう決めた瞬間だけ、少し楽になった。


それからマリアは少しずつ準備を始めた。


まず髪を切った。


何ヶ月も放置して傷んだ毛先を、セルフカットで整える。

美容院に行くのは怖かった。

失敗しながら、なんとか長さだけ揃えた。


昔の自分とは程遠い姿。


それでもマリアは、なんとか“普通”に見えるよう努力した。


服を買った。

化粧品を引っ張り出した。

何度もメイクを練習した。


吐き気がした。

途中で息が苦しくなって、床に座り込む日もあった。

それでもやめなかった。


アキラには、綺麗な自分で会いたかった。


何年も使っていなかったファンデーションはひび割れていた。

口紅も、少しだけ油の匂いがした。

鏡の前で何度も笑ってみる。

口角を上げるたび、頬だけが先に引きつった。


ある日、病院帰りの公園で、ナツメが言った。


「……なんか顔色悪くね?」


マリアは一瞬びくりとした。


「普通だよ」


「普通に見えねぇ」


ナツメの目は鋭い。

ナツメは昔から、そういうところがある。

見つけなくていいものまで見つける。


マリアは視線を逸らした。


「最近、出かけてるから疲れただけ」


「どこに」


「……どこでもいいでしょ」


ナツメは少し黙った。


「そっか」


それだけ。


でも別れ際、ナツメは珍しく低い声で言った。


「あんまり、無理すんなよ」


マリアは返事ができなかった。


無理をしている。

限界だった。


ナツメと別れたあとも、胸のざわつきは消えなかった。


夜になるとアキラのSNSを見る。


笑顔。

本。

日常。


そのたびに思う。

この人は光の側にいる。


私は違う。

もう戻れない。


マリアは鏡を見る。


作った笑顔。

丁寧に塗った口紅。

昔みたいに見えるよう何度も角度を探す。


でも目だけは駄目だった。

どれだけ取り繕っても隠せない。


それでも会いたかった。

最後に一度だけ。


「アキラ」


夜の部屋で名前を呼ぶ。


「私、ちゃんと普通に見えるかな」


返事はない。


布団のそばには、新しいブラウスが畳まれていた。

白い生地には、小さな花柄。


中学の頃、アキラに「似合いそう」と言われた色だった。

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