今さら、あなたと4
夜中の三時だった。
一度時計を見たあと、マリアはもう何分経ったのかわからなくなっていた。
睡眠薬は飲んだ。
それでも眠気は来ない。
マリアは暗い部屋の中でスマホを見つめていた。
充電コードに繋がれた白い光だけが、沈んだ顔を照らしている。
公園で別れてから、ずっと落ち着かなかった。
ナツメの声が、まだ耳に残っている。
公園のベンチ。
缶コーヒー。
春が近いね、なんて、どうでもいい話。
ナツメは無理に励まさない。
踏み込まない。
「元気になれ」と言わない。
ナツメは、マリアが言葉に詰まっても待っていた。
沈黙を埋めようとしなかった。
その優しさが怖かった。
昔を思い出してしまうから。
マリアは震える指で検索欄を開く。
中学時代の友人。
何度も探そうとして、途中でやめていた名前。
――アキラ。
検索結果に出てきたアカウントを見た瞬間、心臓が大きく鳴った。
アイコンは猫。
プロフィールには好きな作家の名前。
昔教えてもらった時と変わらないアカウント名。
マリアはしばらく画面を見つめたあと、恐る恐る投稿を開く。
そこには、普通の人生があった。
休日に読んだ小説。
カフェの写真。
職場の愚痴。
家族との食事。
親戚の子どもが可愛いという投稿。
どの写真にも、ちゃんと生活が続いている感じがした。
けれどマリアには、その全部が遠かった。
アキラは昔からさっぱりした性格だった。
女子特有の群れを嫌い、誰にでも同じ態度で接していた。
一緒にいても、息苦しさを感じない人だった。
マリアが唯一、「怖くない」と思えた友人だった。
中学生の頃、アキラは特別だった。
アキラといる時だけ、少し呼吸が楽だった。
憧れていた。
一緒に図書室へ行った。
くだらない話をした。
学校が苦しくても、アキラがいるだけで少しだけ安心できた。
なのに、マリアは何も言えなかった。
笑うタイミングを合わせて、みんなと同じ話題で笑った。
そうしていれば、教室の中にいても浮かずに済んだ。
スマホの画面が滲む。
気づけば泣いていた。
「……どうして」
かすれた声が部屋に落ちる。
アキラは生きている。
ちゃんと。
普通に。
友達がいて、家族がいて、仕事をして、本を読んで笑っている。
マリアは震える指で画面を撫でる。
まるで向こう側のアキラに触れようとするみたいに。
「ねえ……アキラ……」
返事なんか来るわけがない。
そもそも、繋がってすらいない。
それでも声が止まらなかった。
「私、本当は普通じゃなかったの……」
息が苦しい。
涙で呼吸が乱れる。
「ずっと必死だったの……」
中学生の頃。
笑うタイミングを真似して。
みんなが好きな話題を覚えて。
変だと思われないように。
消えたいなんて思ってること、隠して。
「普通のふりをしていただけなの……」
アキラは知らない。
再会するまで、ナツメも知らなかった。
誰も知らなかった。
夜が来るたび、このまま朝にならなければいいと思っていたことを。
誰にも言わなかったことを。
「ねえ、アキラ……」
マリアはスマホを胸に押し当てる。
「私、ちゃんとできなかった」
言葉が途中で途切れる。
呼吸がうまく続かない。
声を出した瞬間、喉の奥が痛くなった。
泣くのも、ずいぶん久しぶりな気がした。
暗い部屋に、自分の泣き声だけが響く。
でもアキラは知らない。
今もきっと眠っている。
明日の仕事のために、普通の夜を過ごしている。
マリアは泣きながら思う。
もし中学の頃、少しだけ勇気を出せていたら。
「苦しい」と言えていたら。
何か変わったのだろうか。
アキラは隣にいてくれただろうか。
でも、もう遅い。
時間は戻らない。
マリアは画面を見つめる。
そこには、本棚の前で笑う顔を隠した女性の写真があった。
昔と変わらない、さっぱりした笑顔。
その瞬間、スマホが震えた。
通知。
――ナツメ
『今日ちゃんと飯食った?』
短い文。
それだけ。
マリアはぼんやり見つめる。
ナツメは知らない。
今、自分がこんなふうに泣いていることを。
かつての友人に救いを求めて、画面越しに縋っていることを。
知らないのに。
どうしてずっと、離れないのだろう。
マリアは震える指で返信を書く。
『食べてない』
送信。
数秒後。
『そっか。明日公園に弁当持ってく』
それだけだった。
慰めでもない。
説教でもない。
絵文字もない、短い文だった。
マリアは唇を噛む。
それでも涙は止まらなかった。
アキラは遠い。
過去には戻れない。
現在のアキラに会いに行く勇気もない。
マリアはスマホを伏せる。
暗くなった画面に、泣き腫らした自分の顔だけが映っていた。




