今さら、あなたと2
マリアが泣くところを、ナツメは一度も見たことがない。
その代わり、授業中にふと窓の外を見る時間が長かった。
呼びかけても、少し遅れてから「なに?」と返ってくる。
教室にいるのに、どこか別の場所にいるような人だった。
そんなマリアと向き合うのが、ナツメは少しずつ怖くなっていった。
高校が近づく頃には、ナツメはマリアを避けるようになっていた。
隣に座ると、息が詰まることがあった。
何を言っても間違える気がして、結局、当たり障りのない話しかしなくなる。
そのまま卒業した。
それから何年も経った。
社会人になり、何度か恋人もできた。
それなりに別れも経験した。
仕事に追われ、現実に擦り減りながら、それでもマリアを思い出した。
今頃は幸せなんだろうと思っていた。
誰かに愛されているはずだと。
だから、偶然再会した時は、マリアの変わり果てた姿に本当に驚いた。
再会してすぐの頃、マリアの家に行ったことがある。
マリアは古いアパートに住んでいた。
部屋は薄暗かった。
カーテンが閉まっているせいか、昼なのに夕方みたいな色をしている。
テーブルの上には、飲みかけの水が何本も並んでいた。
何種類もの薬袋が、その横に重なっている。
「ちゃんと食べてるのか?」
「わからない」
「しっかり寝てるんだろうな?」
「最近は……二時間くらい」
声はかすれていた。
マリアは返事をするたび、小さく息を整えるような間があった。
短い会話だけで疲れているのが分かる。
マリアは室内という閉じた空間に他人がいるのを、ずいぶん怖がっているようだった。
だからナツメがマリアの家に行ったのは、結局その一度きりだった。
それからはナツメは月に一度、マリアが病院に行く日に時間を作り、公園のベンチで会っていた。
ただ少し話すために。
「昔さ、美術部で作業中にペンキまみれになった日あったよな」
ある日そう言うと、マリアはぼんやり首を傾げた。
「……そうだね」
「ああ」
「ごめん、ちゃんと思い出せない」
ナツメは笑った。
「別にいいよ」
ナツメは笑って、缶コーヒーを口に運ぶ。
もう冷めていた。
マリアの中から、自分との時間が消えている。
あんなに好きだった人に、自分の存在が残っていない。
それなのに、逃げたいとは思わなかった。
ナツメは冷めた缶コーヒーを見つめる。
ようやく、彼女が抱えていたものの重さに触れた気がした。
マリアは、ナツメとの思い出をうまく思い出せない。
けれど月に一度、公園で会う日だけは覚えていた。
ある雨の日、マリアは傘を両手で拙く持っていた。
傘の端からは、一定の間隔で雨粒が落ちている。
マリアは濡れたスニーカーの先を見ながら、小さな声で言った。
「私ね、人が怖いの」
ナツメは黙って聞いた。
「優しくされると、もっと怖い」
「……うん」
「冷たくされるのと同じくらい、怖い」
ナツメはしばらくしてから言った。
「……それでも、会いたい」
ナツメは、それ以上うまく言えなかった。
雨音だけが続く。
届いていないのだと思った。
けれど数分後、マリアがぽつりと言った。
「ナツメって、優しいね」
その名前を、ようやく彼女は呼んだ。
ナツメは息を呑んだ。
「もしかして、思い出した?」
「……少しだけ」
マリアは弱く笑った。
「一緒に帰ってた人……だよね」
記憶はぼんやりしていた。
断片しか残っていないのだろう。
学生時代のマリアは、もっと遠い人だった。
こんなふうに、雨の匂いのする公園で並んで座る姿なんて、想像したこともなかった。
「そろそろ、帰る」
「……おう」
マリアは立ち上がって背を向ける。
「名前、呼ばれただけなのに……」
「くっそ嬉しいの、なんか悔しいな」
帰り道、ナツメは駅へ向かう途中で何度も振り返った。
マリアは最後まで、振り返ることはなかった。
公園のベンチだけが、雨の中にぼんやり残っていた。




