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三十八歳、触れないまま恋をする〜重すぎる愛と、静かな恋の間で~  作者: ail38


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三十八歳の再会

再会した瞬間のことを、あとから何度も思い返した。


もっと劇的なものになると思っていた。

名前を呼ばれて振り返るとか、偶然入った店で目が合うとか、そういう、昔話にできる形を。


実際は、夕方の交差点だった。


信号待ちの人混みの中で、ナツメは前に立つ女の背中を見つけた。


細すぎる肩。

雑に纏められた栗色の長い髪。

白いマスクで顔の大半は隠れているのに、それでもわかってしまう輪郭。


――マリア。


心臓が、遅れて跳ねた。


ありえない、と思う。

何度も見間違いかと疑う。

でも目が離れない。


彼女は俯いたまま、周囲を見ていない。

まるで世界と関わることを拒絶しているみたいに、ただそこに「ある」だけだった。


信号が青に変わる。

人の流れに押されて、ナツメは一歩踏み出した。


好きだ。


その言葉が、何年ぶりかもわからないほど自然に浮かぶ。


横断歩道を渡りきる頃には、確信に変わっていた。

マリアだった。

でも。


(こんな……)


学生時代のマリアは、教室の空気を変える人だった。

窓際で本を読んでいるだけなのに、気づけばみんな一度は彼女を見ていた。

触れたら壊れそうなほど繊細で、それでも誰よりも美しかった。


目の前の彼女は、違う。


目の下には濃い影。

頬は削げ、足取りは不安定で、今にも倒れてしまいそうだ。


誰も見ていない。

誰も気にしていない。

かつてあれほど人を惹きつけた存在が、こんなにも簡単に世界から零れ落ちている。


ナツメの胸に、奇妙な感情が広がる。


痛みと――


胸の奥で、小さな安堵が生まれる。

ナツメは思わず目を伏せた。


学生時代のマリアは、遠かった。

誰のものにもならないまま、勝手に焦がれて、勝手に傷つくしかなかった。


でも今の彼女は、手を伸ばせば触れられる場所にいた。


「……マリア」


声をかける。

反応はない。


もう一度、少し近づいて呼ぶ。

彼女はゆっくりと顔を上げた。


目が合う。

その瞬間、ナツメは理解した。


――届いていない。


そこにあるのは、知っている誰かを見る目じゃない。

ただ、音の方向を認識しただけの、空虚な視線。


「なあマリア、私だよ」


少し笑おうとして、うまくいかない。


マリアは数秒、ナツメを見つめる。

それから、小さく首を傾げた。

知らない人を見る仕草だった。


それでも――


(大丈夫だ)


過去のマリアは遠すぎた。

眩しすぎて、触れられなかった。


でも今の彼女は――


服の袖口が少し擦り切れていた。

昔は、制服はいつも清潔に隙間なく整えられていたのに。


ナツメは視線を逸らす。

見てはいけないものを見た気がした。


なら、私が。


「……少し、話さないか」


できるだけ優しく言う。

マリアは黙っている。


逃げもしないが、頷きもしない。

ただそこにいるだけ。


ナツメはその沈黙を、拒絶ではないと解釈する。

そうしないと、立っていられなかった。


近くの公園のベンチに座る。


「覚えてるか?中学の、美術部」


返事はない。


マリアは自分の手を見ている。

何かを確かめるみたいに、何度も親指の爪を撫でていた。


「よく一緒に帰ったよな」


返事は返ってこない。

それでもナツメは話し続けた。

黙った瞬間、本当に他人になってしまう気がした。


「ずっと、好きだった」


気づけば、口にしていた。

言うつもりなんてなかったのに。


でも今のマリアなら、拒絶されないかもしれないと思ってしまった。


マリアはゆっくり顔を上げた。


「……そうなんだ」


マリアが、それだけを小さく呟く。

理解ではなく、音として。


その瞬間、ナツメの中で何かが濁っていく。


嬉しいはずだった。

叶ったはずだった。

ずっと欲しかった存在が、目の前にあるのに。


何かが決定的に足りなかった。


何度も繰り返してきた想い。

でも今、目の前にいる彼女には、その重さが届いていない。

どれだけ近くにいても、触れても、呼んでも。


マリアはここにいない。


それでもナツメは、立ち上がらない。

隣に座り続ける。

壊れた時間の中で、ただ一人、過去に縋るみたいに。


「……なあ、マリア」


返事はない。

それでもいいと、自分に言い聞かせる。


(今は、これでいい)


(ここから、始めればいい)


そう思おうとするほど、胸の奥が軋む。


風が吹くたび、マリアの指先がわずかに震えていた。

ナツメは、その手を見ている。


触れたいと思う。

まだ早い、とも思う。


沈みかけた夕日が、二人の間のベンチを細く照らしていた。

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