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三十八歳、触れないまま恋をする〜重すぎる愛と、静かな恋の間で~  作者: ail38


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過去編:彼女は特別だった16

冬の空気は、音を少しだけ遠くする。


マリアは通学路を歩きながら、ただ足を前に出していた。

景色は見えているはずなのに、何も残らない。


(……なんで今さら)


頭の中に浮かぶのは、昔のことばかりだった。


「お前、また一人で描いてんの?」


あの少し乱暴な言い方。


(ナツメ)


名前を心の中で呼ぶだけで、胸がわずかに痛む。

あの頃、マリアは思っていた。


(浅い友情だって)


そう決めつけていた。


でも――


(違ったのかもしれない)


今になって、そんなことを思う。

離れて、時間が経って、もう戻れないところまで来てから。


美術室の窓際で、マリアは一人で座る。

筆を持っているのに、動かない。


頭の中では、何度も同じ場面が繰り返される。

卒業間近のあの日、ナツメは何か言おうとしていた気がする。

でもマリアは、それを受け取らなかった。


(……傷つけた)


その事実だけが、はっきりと残っている。


(謝らないと)


そう思った。

でも立てなかった。


……いや、立たないっていうより、動き方を忘れてる感じで。


今の自分は、「普通」でいるだけで精一杯だ。

これ以上、何かを抱える余裕はない。


それでも――


(会いたい)


そう思った瞬間、胸の奥が痛んだ。


同じ頃、別の街。


(……バカだな)


ナツメは小さく呟く。

何に対してなのか、自分でもよくわからない。

ただ、胸の奥に引っかかっているものがある。


マリアのことだ。


思い出さない日はない。

会いたいけれど――


マリアが選んだ距離。

それを、勝手に踏み越えるわけにはいかない。

会いに行こうとする度に、あの日の拒絶を思い出して足が止まる。


部室で、ナツメは一人でキャンバスに向かう。


(なんでまだ描いてんだろ)


ふと、そんなことを思う。

答えはすぐに出る。


(あいつが描いてたからだろ)


それだけで、やめられない。


思い出すのは、美術館で見たあの絵。

額縁の中にあった、マリアの作品。


(……綺麗だったな)


あのとき、声をかけなかった。

それでよかったと思っている。


(あいつの世界、邪魔したくないし)


でも同時に、別の感情もある。


(……ほんとは、話したかった)


ナツメは何かを描こうとして、結局筆を置いた。


マリアは、窓の外を見る。


(会いに行ったら、どうなるんだろう)


謝って、それで終わるのか。

それとも、何かが戻るのか。

想像するだけで、胸が重くなる。


(そんな余裕、ない)


現実は変わらない。

明日も学校に行って、同じように「普通」を続ける。

それだけで、精一杯。


ナツメは、目の前の白いキャンバスを眺めた。


(行ったら、困らせるだけだろ)


今さら現れて、何を言うのか。


(何もかも、手遅れだろ)


そんな言葉が浮かぶ。


(資格、ないしな)


自分でそう線を引く。


風が少し強くなって、窓ガラスが音を立てる。


白いキャンバスは、そのままだった。

まだ何も描かれていない。

けれど、捨てられてもいなかった。

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