過去編:彼女は特別だった15
進路希望調査の紙は、薄くて、やけに白かった。
教室のざわめきの中で、みんなが当たり前のようにペンを走らせている。
大学名、専門学校、将来の夢。
そのどれもが、マリアには遠いものに見えた。
(本当は、行きたかった)
思うだけなら、自由だった。
もっと描きたかった。
知らないものを見て、知らない色を知りたかった。
でも――
「就職、か」
担任の声は、明らかに落胆していた。
「……はい」
マリアは小さく頷く。
「家庭の事情で」
それ以上は言わない。
放課後、美術室に残る人は少なくなっていた。
カナタが卒業してから、空気が少し変わった気がする。
彼女の残した作品たちは、今は廊下に飾られて、立ち止まった人の目を楽しませている。
マリアはいつも通り、キャンバスの前に立つ。
筆を持って、色を載せる。
その動作だけは、まだ体が覚えている。
「マリアってさ、ほんと偉いよね」
後ろから聞こえた声に、少しだけ肩がこわばる。
クラスメイトの女子だった。
「普通だったらさ、もっと落ち込むじゃん」
「……そうかな」
「だって大学行けないんでしょ?なのにそんな普通にしてるし」
普通。
その言葉が、静かに沈む。
「すごいよね」
そう言われて、マリアは曖昧に笑った。
(普通にしてるんじゃなくて)
(してるふりをしてるだけ)
心の中でだけ、訂正する。
廊下の端、窓の外を見ながら立っていると、少し離れたところにハルミの姿が見えた。
相変わらず、時折こちらを見ている。
あの視線の意味を考えることも、もうなくなっていた。
(変わらないな)
マリアはそう思う。
自分の中の物語のまま、生きている人。
(……もう、関係ない)
ただ、遠い存在。
それだけだった。
夜、家に帰る。
静かな部屋。
生活音だけが響く空間。
机の上には、何もない。
かつて並べていた参考書も、進学案内も、もうない。
代わりに置かれているのは、几帳面な文字で埋め尽くされた面接書。
(これでいい)
そう思うことにする。
(これでいいんだ)
言い聞かせるように。
ベッドに横になっても、眠れない。
目を閉じると、いろんなものが浮かぶ。
描きかけの絵。
美術館の白い壁。
「名誉なことなんだから、素直に喜んでおけ」
カナタの声が、ふと蘇る。
あのときは、少しだけ嬉しかった。
確かに、そう感じた。
(……あれも、もう関係ない)
そう思おうとする。
でも、完全には消えない。
朝が来る。
また同じ一日が始まる。
制服の襟を整えて、いつものタイミングで教室に入る。
「おはよう、マリア」
「おはよう」
「は〜、物理の宿題まだやってない、ヤバい」
「それは、はやくやった方がいいんじゃないかな……」
(大丈夫)
(まだ動ける)
自分に言い聞かせる。
心が追いついていなくても、体が動けばそれでいい。
周りに違和感を持たれなければ、それでいい。
美術室で、一人になる。
誰もいない時間。
その静けさの中で、ふと手が止まる。
筆が、宙に浮いたまま動かない。
(……あれ)
次に何を描こうとしていたのか、わからなくなる。
小さな違和感だった。
(まあ、いいか)
無理に動かす。
線を引いて色を重ねるのに、どこか噛み合っていない。
それでも続ける。
止まる方が怖いから。
筆を持つ手が、少しだけ遅れる。
その違和感に見ないふりをして、また色を重ねた。
歪んだ線に囲まれて背を向けた少女が、ぽつんと描かれていた。




