過去編:彼女は特別だった10
昼休みの教室は、ざわざわとした音で満ちていた。
笑い声、椅子の擦れる音、誰かの名前を呼ぶ声。
そのすべてが、マリアには少し遠く聞こえる。
「マリア、一緒に食べよ」
当たり前のように隣の席に座るハルミ。
断る間もなく、距離を詰めてくる。
マリアは小さく頷いた。
頷く以外の選択肢を、最初から持っていない。
「今日さ、また男子がマリアのこと見てたよ。ほんとしつこいよね」
「……そうなんだ」
「でも大丈夫。私がちゃんと見てるから」
守っている、という言い方。
その響きに、胸の奥がわずかにざらつく。
中学の頃、似たような言葉を聞いたことがある。
けれど、それはもっと静かで、押しつけがましくなかった。
ハルミのそれは違う。
どこかで「自分が必要とされている」と確認するための言葉。
「マリアってさ、本当に危なっかしいんだよね」
笑いながら言う。
(……別に、頼んでない)
その言葉は、喉の奥で止まる。
放課後の美術室でも同じだった。
「隣、いい?」
返事を待たずに座る。
キャンバスに向かうマリアの視界の端に、常にハルミがいる。
「マリアの絵ってさ、なんか儚いよね。そこが好き」
好き。
その言葉が、やけに重く落ちる。
「ねえ、私たちってさ、親友だよね?」
筆が止まった。
「……どうだろう」
曖昧に返す。
否定も肯定もしない言葉。
けれどハルミは、それを肯定として受け取る。
「だよね。やっぱりそう思う」
嬉しそうに笑う横顔。
その確信に満ちた表情が、マリアには理解できなかった。
(違う)
心の中でだけ、はっきりと否定する。
親友なんかじゃない。
少なくとも、マリアにはそう思えなかった。
ただ、距離を取ることに失敗し続けているだけ。
「そのうちさ、もっと深い関係になると思うんだよね、私たち」
ハルミは笑いながらそう言った。
まるで、明日の天気を話すみたいに自然な口調だった。
「マリアはさ、しつこくて気持ち悪い男子なんか気にしなくていいんだからね」
マリアは何も言わなかった。
絵の具の匂いだけを追いかける。
美術室が前より狭く感じた。
(どうして、こんなに近いんだろう)
距離がある方が楽だった。
中学の頃のように、少し離れた場所にいる誰かの方が、まだ呼吸ができた。
「マリアってさ、ほんと私がいないとダメだよね」
その言葉に、心が少しだけ冷たくなる。
(違う)
今度は、さっきよりも強く思う。
(いない方がいい)
けれど、それも言わない。
キャンバスに色を塗ろうとして、失敗する。
明るい色を置こうとしたのに、茶色く濁って変色してしまう。
夜、ベッドに横になっても眠れない。
ハルミの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
(私が間違ってるのかな)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
「普通」でいるために、ただ一日をやり過ごす。
色が濁ったキャンバスは、もう手直しできないだろうという諦めだけが残った。




