過去編:彼女は特別だった9
高校の美術室は、中学のそれよりも少し広く、少し静かで、少しだけ他人の気配が薄かった。
それがマリアには都合がよかった。
人と関わらなくてもいい場所。
ただ、そこに「いるだけ」で許される場所。
けれど、胸の奥の重さは変わらない。
夜は眠れず、朝は現実に引き戻される。
「普通」でいようとするほど、自分が空っぽになっていく。
ある日の放課後、マリアは一枚の絵の前で立ち止まった。
巨大なキャンバス。
荒々しく、それでいて繊細な色の重なり。
何を描いているのかはわからないのに、目が離せなかった。
「ずっと立ってると疲れるよ。そこの椅子、使えば?」
背後から声がした。
振り返ると、絵の具のついた指を軽く振る先輩がいた。
三年生のカナタ先輩だった。
数々の賞を取っている、有名な人。
美術部の中でも、どこか「特別な存在」。
「……でも、創作の邪魔になるんじゃ」
マリアが小さく言うと、カナタは少し笑った。
「大丈夫だって。同性の可愛い女の子なら、大歓迎だけど?」
冗談めいたその言い方に、マリアは一瞬だけ言葉を失った。
けれど、張りつめていた何かが、ほんの少しゆるむ。
椅子に座ると、視界が少し変わった。
絵との距離が、ちょうどよくなる。
「……すごいですね」
それしか言えなかった。
けれどカナタは、それで十分だと言うように頷いた。
それから、少しずつ会話が増えていった。
他愛もない話。
使っている画材の話。
時々、どうでもいい冗談。
けれど、そのどれもが不思議だった。
人と話しているのに、苦しくならない。
消えたいと思わずに済む時間があることを、マリアは知らなかった。
ある日、カナタは筆を止めて、ぽつりと呟いた。
「絵の中はさ、自由だから」
マリアは何も言えなかった。
ただ、その横顔を見ていた。
カナタの絵は、自由だった。
けれど、その自由を生み出している人間が、必ずしも自由ではないことを、マリアはなんとなく感じていた。
壁には賞状が並んでいた。
部員たちはカナタの絵を見るたびに感嘆の声を漏らす。
そのたびに、カナタは少しだけ困ったように笑う。
(この人も、苦しいんだ)
(……私も、あの絵の中にいられたらよかったのに)
額縁の中の世界。
完成された色と形の中。
そこには、現実のような重さはない。
「普通」でいなくてもいい。
笑わなくてもいい。
人と関わらなくても、存在していていい。
現実は違う。
教室では、周りに合わせて笑う。
話しかけられれば、適切な返事を探す。
空気を読み、期待される「普通」を演じる。
それを一つでも間違えれば、すぐに崩れてしまいそうで。
(なんで、こんなに苦しいんだろう)
帰り道、マリアはふと立ち止まった。
夕焼けが、やけに赤く見えた。
カナタの言葉が、頭の中で繰り返される。
「絵の中は自由だから」
自由という言葉が、遠いもののように感じる。
赤く照らされた道路に、たくさんの人影が黒く伸びているのが見える。
ただ「普通」でいるために、毎日を消費していく。
美術室に戻れば、あの絵がある。
少しだけ息がしやすくなる。
でも、帰る時間は必ず来る。
マリアは歩き出した。
どこへ向かっているのかも、わからないまま。
ただ、止まることだけが怖かった。
青信号で点滅する信号を眺めながら、マリアはふと、美術室の匂いを思い出していた。
マリアはまだ、額縁の外にいる。




