過去編:彼女は特別だった7
アキラが転校する、と聞いたのは、何でもない放課後だった。
美術室の窓から差し込む光はいつもと同じ色をしていたのに、その言葉だけが、空気の温度を変えた。
「来月には引っ越すことになったんだ」
アキラは、いつも通りの声で言った。
冗談みたいに軽く笑っていた。
だから余計に、現実だと分かるのに時間がかかった。
マリアは、その場で何も言えなかった。
言葉が喉の途中で止まる。
(何か言わなきゃ)
頭では分かっているのに、体が動かない。
「そっか」
それだけが、やっと出た。
それ以上は無理だった。
アキラは少しだけ目を細める。
「うん。でも、まあ……寂しいな」
軽い言い方。
でも、その軽さが優しさだとマリアは知っていた。
(ちゃんと、言いたかった)
何を。
どう言えばいいのか分からない。
ただ、言わなければいけない気がした。
でも、言葉は最後まで形にならなかった。
別れの日は、あっという間に来た。
駅のホームには、電車の音が大きく響いていた。
アキラは、最後まで明るかった。
「じゃあね」
「うん」
短いやり取り。
それだけで二人の関係は終わってしまう。
電車が動き出す。
アキラが手を振る。
マリアも、少しだけ手を上げる。
扉が閉まり、姿が見えなくなる。
その瞬間、ようやく理解する。
もう二度と、同じ日常には戻らないのだと。
マリアの中で、アキラは「嫌いじゃない人」ではなくなった。
それ以上に大きい存在になってしまった。
名前をつけると壊れてしまいそうな、でも確かに大切なもの。
(聖域)
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
触れたらいけない場所。
失って初めて分かるもの。
マリアはしばらく、その場から動かなかった。
その後の学校は、少しだけ色を失ったようだった。
アキラのいない美術室に、マリアは急に泣き出しそうになる。
ナツメは、その変化をすぐに察した。
「……元気ないな」
放課後、並んで歩く道でそう言う。
「別に」
マリアは短く返す。
でも、その声はいつもより少し遠い。
「本、今日は何読んだんだよ」
「暗いやつ」
「いや、そうじゃなくて」
タイトルとか、と言おうとして言葉に詰まる。
アキラのいた場所を、マリアが一瞬だけ見つめた。
それでもナツメは、近づこうとする。
図書室でも、美術室でも、帰り道でも。
少しでも隣にいようとする。
けれどマリアは、それを自然に避けるようになった。
「一緒に帰る?」
「今日はちょっと用事あるから」
「美術室行かないの?」
「先に行ってて」
断る理由はいつも曖昧だった。
でも確実に、距離だけが開いていく。
ナツメは分かっている。
(私じゃない)
マリアの心の中に、自分の居場所はない。
ある日の放課後。
誰もいない廊下で、ナツメは声をかける。
「私、何かしたか?」
マリアは少しだけ立ち止まる。
振り返らないまま、答える。
「……何も」
何もしていないのに、遠ざけられる。
何もできないまま、届かない。
マリアの中では、アキラが「静かに綺麗な場所」として残り続けていた。
そこは、壊したくない場所。
だからこそ、誰も近づけない。
ナツメは、それを知らない。
知っていたのは、声をかけても届かないこと。
隣にいても遠いこと。
それだけだった。
アキラがいない、静かな美術室。
ナツメは扉を開く。
けれど、声はかけなかった。
マリアは気づかない。
ただ、アキラが座っていた場所を見つめていた。
その視線の先に、自分はいないのだと。
ナツメはもう、知っていた。




