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三十八歳、触れないまま恋をする〜重すぎる愛と、静かな恋の間で~  作者: ail38


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過去編:彼女は特別だった6

その感情に、名前をつけてはいけないと思っていた。

マリアの中で、それはずっと前から決まっていることだった。


誰かを好きになること。

誰かに触れたいと思うこと。

誰かと近づこうとすること。


――全部、間違いだと。


理由は、うまく言葉にできない。

ただ、そうでなければ自分が壊れる気がした。


美術室はいつもより騒がしかった。

文化祭のための大きな看板を、部員全員で作る日。


床には新聞紙が敷かれ、大きな板に下書きがされている。


「ここ、もっと明るくした方がよくない?」


アキラが、筆を持ちながら振り返る。


頬に少しだけペンキがついていた。


「うん、その方がいいと思う」


マリアは自然に答える。

いつの間にか、こういうやり取りが増えていた。

考えなくても、言葉が出てくる。


「ナツメ、そっちどう?」


誰かが声をかける。


「ああ、今塗ってる」


ナツメは手を動かしながら短く答えた。

視線だけが、ちらりとマリアの方に向く。

すぐに逸らされる。


マリアは、その視線に気づいていた。

でも、気づかないふりをする。


(重い)


少しだけ、そう思ってしまった。


「うわ、ちょっと待って、こぼした!」


アキラの悲鳴が響く。

振り返ると、バケツが少し傾いて、ペンキが床に広がっていた。


「ちょっとアキラ、ペンキがもったいないじゃない!」


神経質な性格の先輩がアキラを叱る。


「すいません、やっちゃいました」


珍しく肩を落としながら、アキラは手を伸ばす。

その手に、マリアの袖が触れる。

気づいたときには、体育用の地味なジャージに色がついていた。


「え、ごめん!」


「……ううん」


マリアは自分の袖を見る。

鮮やかな色が、じわりと広がっていく。

少しだけ、驚いた。


でも――


「なんか、いいかも」


ぽつりと呟く。


「いいの!?」


アキラが目を丸くする。


「うん」


マリアは小さく笑った。

本当に、少しだけ。


「こういうの、あんまりないから」


その一言に、アキラはふっと笑う。


「よーし、じゃあ、もっとつけちゃえ」


「え?」


次の瞬間、筆の先がマリアの頬に触れる。

ひんやりとした感触。


「……なにしてるの」


困ったように言いながら、でも声は弱い。


「似合うよ」


アキラは悪びれずに言う。

そのまっすぐさに、言い返せなくなる。


気づけば、マリアも筆を持っていた。

少しだけためらってから、アキラの腕に色をつける。


「うわ、やり返した!」


笑い声が広がる。

周りの部員たちも巻き込まれて、いつの間にか小さな騒ぎになっていた。


「ちょっとあなたたち、あっ、私にまで付けたわね!」


神経質な先輩まで、気づけば笑っていた。


ナツメは、その光景を何も言わずに見ていた。


マリアは笑っていた。

声を上げて、楽しそうに。

こんなふうにマリアが笑うところを、ナツメは知らない。


(……ずるいだろ)


そう思った。


でも、口にはできなかった。


ペンキの付いた筆が、看板の上に落ちる。


「うわ、ナツメ!何してんの」


隣で作業していた先輩に慌てて注意される。


「あ、すいません!すぐ直します」


ナツメは急いで、自分が落とした色が不自然に見えないように塗り直す。


マリアはペンキまみれになった手で、アキラと顔を見合わせた。


「ひどい格好だね」


「お互い様でしょ」


また笑う。

自然に、何も考えずに。

その瞬間、マリアの中で何かがほどける。


(ああ)


胸の奥が、少しだけあたたかくなる。

苦しさとは違う感覚。


(これって)


胸の奥に浮かんだ感情に、うまく名前がつけられない。


苦しくない。

怖くない。


ただ、隣にいる時間が心地よかった。

アキラが笑うと、自分も少しだけ笑いたくなる。

そんなことが、不思議だった。

静かに、そう思った。


アキラのことが。

隣にいる時間が。

一緒に笑えるこの瞬間が。

なぜだか、とても大切に思えた。


「どうしたの?」


アキラが不思議そうに覗き込む。


「……なんでもない」


マリアは首を振る。

でも、その表情は少しだけ柔らかかった。


遠くでナツメが筆を握りしめる。

視線は、ずっと二人の方に向いたまま。


看板は、少しずつ完成に近づいていく。

色が重なり、形になっていく。

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