過去編:彼女は特別だった5
美術室には、乾いた絵の具の匂いが満ちていた。
放課後の光が斜めに差し込み、キャンバスの上に色を落としている。
マリアは筆を動かしながら、ふと隣を見る。
「これでいいのかな」
アキラが、少し首をかしげていた。
図書委員で仲良くなったアキラも、今は同じ美術部にいる。
まだ不慣れな手つき。
でも、楽しそうにどんどん色を置いていく。
「いいと思うよ」
マリアは静かに言う。
本当だった。
上手いかどうかより、そこに迷いが少ないことが羨ましかった。
「ほんと?よかった」
アキラはすぐに笑う。
その笑顔は、やっぱり軽やかだった。
少し離れた場所で、ナツメはそれを見ていた。
筆は動かしている。
でも、視線は何度も二人に向いてしまう。
(また隣かよ)
心の中で呟く。
マリアの隣は、いつの間にかアキラのものになっていた。
自分が立っていた場所だった。
図書室でも、美術室でも。
自分がいた場所が、静かに塗り替えられていく。
(私の方が、ずっと前から――)
考えかけて、やめる。
でも、感情は止まらない。
「ナツメ、これどう思う?」
不意に、アキラがキャンバスを持って近づいてきた。
無邪気な声。
悪気なんて、どこにもない。
ナツメは少しだけ視線を落とし、絵を見る。
色は明るい。
構図は少し不安定。
でも、それ以上に――
(気に入らない)
絵じゃない。
理由は、分かっていた。
「……下手だな」
口から出た言葉は、思ったよりも冷たかった。
空気が、一瞬だけ止まる。
「別に……いや、なんでもない」
「え、やっぱり褒めようとした?」
「ちげえよ」
「あー、そっか」
アキラは、あっさり笑った。
「だよね、まだ全然わかんないし」
軽く頭をかいて、またキャンバスを見る。
「もっと練習しなきゃなー」
そのまま、何事もなかったみたいに席へ戻っていく。
ナツメは、少しだけ戸惑う。
(なんで笑えるんだよ)
傷つくと思った。
少なくとも、少しは気にすると思った。
でも、アキラは違った。
言葉を受け取って、流して、また前に進む。
マリアは、そのやり取りを見ていた。
何も言わずに。
胸の奥が、少し重くなる。
(どうして)
ナツメの言葉が、頭の中で反響する。
あんな言い方をしなくてもいいのに。
ナツメの視線が、こちらに向く。
何かを言いたそうで、でも言わない目。
マリアは、その視線を受け止めきれなかった。
(息苦しい)
ふと、そう思ってしまう。
今まで思わないようにしていた感情。
ナツメの距離。
ナツメの言葉。
ナツメの沈黙。
全部が少しずつ、息苦しい。
アキラは違う。
隣にいるだけ。
何も求めてこない。
それなのに、一緒にいられる。
(こういうのが、いい)
そう思ってしまった瞬間、どこかで何かが決定的にずれた。
「ねえマリア、さっきの本の話なんだけどさ」
アキラが自然に話しかけてくる。
「うん」
マリアも自然に応じる。
そのやり取りは、柔らかくて、軽い。
ナツメは、その間に入れなかった。
(……邪魔してるみたいじゃん、私)
そんな考えが、ふと浮かぶ。
笑えない冗談みたいに。
放課後の光が、ゆっくりと色を変えていく。
キャンバスの上の色も、少しずつ乾いていく。
「先帰るわ」
ナツメが、誰にともなくぽつりと言う。
「え、もう?」
アキラが顔を上げる。
「用事があるから」
短く答える。
マリアは何も言わなかった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
美術室に静寂が戻る。
「ナツメ、今日ちょっと機嫌悪かった?」
「もしかして、私のせいかな」
アキラが首をかしげる。
「……違うと思う」
マリアは曖昧に答える。
それ以上、言葉は続かない。
筆を持つ手が、少しだけ止まる。
(どうしたらいいんだろう)
誰に対しても、正しくいられない。
誰の気持ちにも、応えられない。
マリアは筆を動かす。
色を重ねる。
その上に、言葉にできない感情を塗り込めるように。
乾ききらない絵の具が混ざり合う。
思った色とは、少し違う色になった。




