過去編:彼女は特別だった4
マリアにとって、学校は「檻」だった。
決まった時間に来て、決まった席に座り、決まった顔で、決まった言葉を交わす。
少しでも形を崩せば、すぐに視線が集まる。
整っているほど、逃げ場はなくなる。
だからマリアは、壊れないように丁寧に自分を作っていた。
綺麗で、静かで、賢い「誰か」として。
図書室だけが、その檻の中で唯一、鍵の緩んだ場所だった。
「それ、続きどうだった?」
アキラが、いつもの調子で声をかけてくる。
ただ隣にいることが、こんなにも楽だなんて知らなかった。
「……よかったよ」
マリアは、本を閉じながら答える。
「ちょっと苦しいけど」
「いいね、それ」
アキラは笑う。
その「いいね」は、評価じゃない。
ただの共感だった。
同じ本を読んで、同じ場面で少し黙る。
言葉にしなくても、何かが通じている気がする。
それはマリアにとって、ほとんど初めての感覚だった。
(こういうの、いいな)
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
理由もなく苦しくなる時間が、ほんの少しだけ遠ざかる。
ナツメは、その様子を少し離れた場所から見ていた。
二人の間に流れる空気は、穏やかで自然で、無理がない。
(また、あんな顔してる)
自分には向けられない顔だった。
マリアの横顔を見て、そう思う。
自分といるときの彼女は、どこか緊張している。
笑っても、ほんのわずかに力が入っている。
でも今は違う。
肩の力がぬけている。
「マリアってさ」
ある日、アキラが何気なく言った。
「なんでもできるよね」
「え?」
マリアは目を瞬かせる。
「勉強もできるし、絵も上手いし、綺麗だし」
軽く言っているようで、その言葉はまっすぐだった。
「ちょっと羨ましいなって思うよ」
その瞬間、マリアの中で何かがずれる。
(羨ましい?)
意味が分からなかった。
どこを見て、そう思うのか。
「そんなことないよ」
反射的に否定するけれど、声は弱い。
「あるよ」
アキラはあっさり返す。
「私、マリアみたいになれないし」
苦笑しながら、でも少しだけ本気で。
マリアは、言葉を失う。
(違うのに)
そう思う。
(私の方が、ずっと――)
羨ましいのに。
苦しくて、うまく息ができない。
夜は眠れず、朝は消えたくなる。
人が怖いのに、一人も怖い。
目の前にいるアキラは、違う。
軽やかで、自然で、誰かと一緒にいることが「苦しさ」になっていない。
(私も、ああなれたら)
気づけば、そう思っていた。
放課後の帰り道を三人で歩く。
「じゃあ、また明日」
アキラが手を振る。
「うん」
マリアも小さく手を振る。
ナツメは無言で頷いた。
アキラがいなくなったあと、少し沈黙が落ちる。
「……楽しそうだったな」
ナツメがぽつりと言う。
何が、とも言わずに。
責めるでもなく、からかうでもない声。
「うん」
マリアは素直に答えた。
その一言に、ナツメの胸が少しだけ締めつけられる。
「いいよな、ああいうの」
「……うん」
二人は同じ言葉を使いながら、違うものを見ていた。
その夜、マリアはベッドの中で目を閉じる。
相変わらず眠れない。
でも、今日は少しだけ違った。
図書室の静けさと、隣にいた誰かの気配が、かすかに残っている。
(羨ましい、か)
昼間の言葉を思い出す。
自分が、誰かにそう思われているなんて信じられなかった。
(私の方が、羨ましいのに)
アキラのことを思い浮かべる。
学校という檻の中で、ほんの少しだけ呼吸が楽になった理由は、自分が特別だからじゃない。
ただ、あの子の隣にいられるからだ。
けれどそのことを、誰も同じ形では理解していない。
その歪みは、誰にも見えない。
ベッドの中でマリアは、アキラの笑顔を思い浮かべる。
眠れない夜の中で、その記憶が少しだけ優しかった。




