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三十八歳、触れないまま恋をする〜重すぎる愛と、静かな恋の間で~  作者: ail38


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過去編:彼女は特別だった3

放課後の図書室は、静かすぎるくらい静かだった。


ページをめくる音と、時折椅子が軋む音だけが、この場所に人がいることをかろうじて証明している。


マリアは、その静けさが好きだった。


言葉を選ばなくていい。

誰かの機嫌を伺わなくていい。

ただ、本の中に沈んでいれば、自分の輪郭が曖昧になる。


「……また難しそうなの読んでるな」


向かいの席に、ナツメが腰を下ろした。

頬杖をつきながら、少し覗き込むようにしてタイトルを見る。


「好きだから」


短い返事。


それでもナツメは、どこか満足そうに小さく頷いた。


本当は読書なんて得意じゃない。

図書委員になった理由も、マリアがいたからだった。


「ナツメ、ちょっといい?」


棚の向こうから、明るい声がする。


顔を出したのはアキラだった。


いつも軽やかな調子で話す、さっぱりとした性格の女子。

同じ図書委員で、いつの間にかナツメとよく話すようになっていた。


「ああ、何だ?」


「この本、返却処理どうやるんだっけ」


「それは――」


説明しながら、ナツメはふと思いつく。


「そうだ、紹介するよ」


少しだけ迷ったあと、マリアの方を見る。


「こいつ、マリア。本ばっか読んでる変なやつ」


雑な紹介だった。

マリアは本から顔を上げる。


「……はじめまして」


「アキラです。よろしく」


軽やかに笑うその人は、距離の取り方がうまかった。


踏み込みすぎず、引きすぎず。

それでいて、どこか温度がある。


「何読んでるの?」


自然な流れで、アキラはマリアの隣に座った。

ナツメの向かいではなく、マリアの隣。


その位置関係に、ナツメはわずかに視線を落とす。


「これ……」


マリアは本の表紙を見せる。


「あ、私それ好き」


「ほんと?」


少しだけ、声のトーンが上がる。

マリアがそんなふうに反応するのは珍しかった。


「この作者、他の作品もいいよね」


「うん、好き」


「新刊読んだ?伏線回収凄すぎない?」


「読んだ。タイトルの意味も、ああそういうことか、ってなった」


「ね、面白すぎて今最初からまた読んでるもん」


「わかる。何度も読みたくなるよね」


会話が滑らかに続く。

全く途切れない。


ナツメは、言葉を挟むタイミングを見つけられなかった。


その日を境に、気づけば二人はよく話すようになっていた。


昼休みも、放課後も。

本の話から、少しずつ日常の話へと広がっていく。


マリアが、笑っている。


それはほんの小さな変化だった。

けれどナツメにとっては、見逃せない違いだった。


(そんな顔、するんだな)


自分といるときには見せなかった表情。


「ねえナツメ、この本おすすめって言ってたやつ?」


アキラが気軽に声をかける。


「ああ、それな――」


言いかけて、ナツメは気づく。

マリアが、その本をもう読んでいることに。

しかも、アキラに勧めたのはマリアの方だった。


「マリアが教えてくれてさ」


アキラが笑う。

ナツメの中で、何かが小さく軋む。


(私の役目、もういらないじゃん)


胸の奥で、そんな言葉が浮かぶ。


マリアを守ること。

マリアのそばにいること。


気づけば、それが自分の居場所になっていた。

けれど今、マリアは別の誰かと並んでいる。

しかも、その顔はどこか楽しそうで。


「ナツメ?」


呼ばれて、はっとする。


「どうしたの?」


マリアが少し不思議そうにこちらを見ている。


その視線はいつもと同じはずなのに、どこか遠く感じる。


「……別に」


短く答える。


帰り道、三人で歩く。

真ん中にいるのはマリアとアキラ。

ナツメは少し後ろを歩く。


二人の会話が、断片的に耳に入る。


本の話。

好きな作家の話。

些細な日常の話。


そのどれもに、自分は入っていない。


(なんでだよ)


心の中で呟く。


(私の方が、ずっと前から……)


そこで言葉が止まる。

比べること自体が、何か間違っている気がした。


でも、止められない。


マリアは、ナツメの気持ちを知らない。

知ろうともしていない。

それでいいと思っていたはずなのに。


「また明日ね」


校門で、マリアが手を振る。

アキラも軽く手を上げる。

ナツメは少し遅れて、「……おう」とだけ返す。


二人が並んで離れていく背中を、しばらく見ていた。


風が冷たい。


二人の姿が角の向こうに消えてから、ようやく小さく息を吐く。


「……ほんと、ダメだな」


誰に聞かせるでもなく呟いて、ナツメは目を伏せた。

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