過去編:彼女は特別だった2
マリアは、相変わらずうまく眠れなかった。
夜になると、理由のない不安が胸の奥から湧き上がってくる。
朝になると、何もかもが億劫で、世界から切り離されたような感覚になる。
それでも学校には行く。
そこにいる間だけは、「普通」でいられる気がしたから。
中学校の美術室は、その中でも少しだけ息がしやすい場所だった。
絵の具の匂いと、静かなざわめき。
誰もが何かに集中していて、誰も深く踏み込んでこない。
その距離感が、マリアにはちょうどよかった。
「おい、また男子に囲まれてたな」
背後から、少し低めの声が飛んできた。
振り返ると、ナツメが腕を組んで立っていた。
短めの髪に、どこかぶっきらぼうな表情。
女子にしては男っぽい話し方で、一人称は「私」。
少し他の子とは違っていた。
けれど、その目はいつもマリアの様子をよく見ていた。
「別に、大丈夫だよ」
マリアはそう答える。
本当は、大丈夫ではない。
視線も、言葉も、少しずつ重くなっていた。
けれど、それを言葉にするほどの関係ではないと思っていた。
ナツメは少しだけ眉をひそめる。
「大丈夫じゃない顔してる」
「そんなことないよ」
そのやり取りは、いつも平行線のままだった。
部活終わりの帰り道。
校舎裏の人気のない場所に、小さな花壇があるのを偶然見つける。
手入れが行き届いているわけでもないのに、なぜかそこだけ色があった。
「……綺麗」
マリアがぽつりと呟く。
それは花に向けられた言葉だった。
けれどナツメは、一瞬息を詰める。
(綺麗なのは、お前だろ)
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
代わりに、ナツメはしゃがみ込んで、花壇の花を一輪摘んだ。
「ナツメ?」
驚くマリアを無視して、立ち上がる。
そして、そのまま彼女の髪に花を挿した。
マリアが目を瞬かせる。
夕焼けの光の中で、マリアの横顔が浮かび上がる。
白い肌、光を受けて輝く栗色の髪。
少し伏せられた長いまつ毛。
花びらが頬に触れて、マリアが少しだけ目を細めた。
ナツメは息を止めた。
目を逸らせなかった。
「外すなよ。せっかく似合ってるんだから」
ぶっきらぼうな言い方に、マリアは困ったように笑った。
「わかった、でも……なんで?」
純粋な疑問だった。
そこに特別な意味は見出されていない。
ただの突飛な行動に対する、戸惑い。
ナツメの胸が、少しだけ痛む。
「別に、なんでもいいだろ」
「う、うん……」
会話がそこで途切れる。
風が吹いて、花が少し揺れた。
マリアは、その花に触れながら思う。
(ナツメのこと、よくわからない)
優しいのか、雑なのか。
時々こうして距離が近いのに、肝心なところは見えない。
でも、それ以上深く考えることはしなかった。
これはただの友情。
少しだけ近い、でも浅い関係のはず。
そう思い込むことで、心を保っていた。
ナツメは、そんなマリアを横目で見ていた。
(なんで気づかないんだよ)
この距離が壊れるくらいなら、伝わらないままでいいとも思う。
でも、伝わらないままなのは苦しい。
「帰るぞ」
ナツメが先に歩き出す。
「うん」
マリアがその後をついていく。
その間にある距離は、ほんの数歩。
けれど、その数歩が埋まることはなかった。
意味も知らないまま、ただそこにあるだけで。
家に帰るまで、マリアは一度も花を外さなかった。




