過去編:彼女は特別だった1
マリアは、ずっと「消えてしまいたい」と思っていた。
その気持ちは、いつからそこにあったのか自分でも分からない。
小学生のマリアは、誰が見ても「恵まれている子」だった。
整った顔立ち、静かな物腰、そして成績は常に上位。
けれど、その内側を知る者はいなかった。
眠れない夜。
理由もなく怖くなる朝。
人の言葉が、時々刃物のように突き刺さる感覚。
誰にも言えないまま、ただ日々が過ぎていった。
そんなマリアにとって、特別な場所があった。
同い年で従兄弟のダイチの家だった。
ダイチは勉強が苦手で、よく怒られていた。
成績優秀な娘と比較して、マリアの母親がいつも見下していたせいだ。
それでも彼は、マリアにとって特別だった。
「ほら、もっと上まで登れるぞ」
木の上から笑うダイチ。
ぎこちなく枝にしがみつくマリア。
「ダイチはすごいね、あんなに上まで登れるなんて」
「まあ、マリアだってけっこう登れるようになっただろ」
「最初の頃は、木の根元から見上げてただけだもんね」
「そうだったよなー!」
「うん」
気づけば、マリアは笑っていた。
マリアにとっては、会話が途切れないことの方がすごかった。
釣り糸を垂らして、何も釣れずに笑い合った日。
畑で採れたばかりの野菜を、土の匂いのままかじった午後。
そこには「ちゃんとしなきゃいけないマリア」はいなかった。
ただの子どもとして、存在していてよかった。
けれど、優しくて穏やかな日々は終わってしまう。
夏休み、ダイチの家に泊まった夜。
静まり返った廊下。
不意に開いた襖。
突然、誰かが部屋に入ってくる。
暗くて、最初は誰だかわからなかった。
マリアの布団のすぐそばに来て、やっとわかる。
下卑た視線、ニヤついた顔を隠そうともせずにマリアを見下ろす。
歳の離れた、ダイチの兄だった。
「前からさあ、マリアちゃんのこといいなと思ってたんだ」
「ココ触るとキモチイイだろ、ほら」
「ダイチはガキだからな、あいつなんかより俺のほうが遊んでて楽しいよな」
「よかったな、他のやつらよりはやく大人になれて」
人の形をしたケダモノが笑っている。
どこにも逃げ場がなくて、恐怖のあまり体は固まっていた。
それが何だったのか、当時のマリアはうまく言葉にできなかった。
誰にも言うなと脅されて、ただ気持ちが悪かった。
ーー怖かった。
その夜から、マリアの中で一つの誓いが生まれた。
「一生、誰とも性行為をしない」
幼い少女には不釣り合いな言葉だった。
けれど、その誓いだけは揺るがなかった。
夏休みの終わりが近づく頃、マリアは思った。
(最後に、もう一度だけダイチと遊びたい)
何もなかったみたいに。
けれど、再会したダイチはすぐに違和感に気づいた。
「どうした?元気ないじゃん」
マリアは笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
その表情が、ダイチの胸をざわつかせる。
「無理すんなよ」
木に登りながら、ダイチは何度も声をかけた。
その一瞬だった。
ダイチが足をすべらせた。
バキッ、と鈍い音が響く。
折れた枝。
崩れる体勢。
そして、落ちる。
すべてがゆっくりに見えた。
次の瞬間、激しい衝撃。
落ちてきた枝がぶつかって、視界が赤く染まる。
何が起きたのか分からないまま、ただ痛みだけが現実だった。
その日を境に、すべてが終わった。
「女の子の顔に怪我させるなんて信じられない!」
「二度と会わせないから!!」
母親の怒声が、すべてを断ち切った。
ダイチの家との関係も、あの夏の記憶も、無理やり閉じられていく。
マリアは泣かなかった。
ただ静かに受け入れた。
最後に病院で、ちゃんと「さようなら」は言えたから。
あの瞬間、ダイチの名前を呼んだ。
それだけで、十分だと思った。
一方で、ダイチは違った。
病院の白い天井を見上げながら、何度も同じ場面を思い返す。
全部、自分のせいだと思った。
そして、もう一つ。
言えなかった言葉が、胸の奥で腐っていく。
「好きだ」
たったそれだけの言葉。
簡単なはずなのに、結局一度も言えなかった。
マリアはいなくなった。
謝ることも、伝えることも、許されないまま。
ただ、時間だけが進む。
夕暮れの木の下に、一人立つダイチ。
あの日と同じ場所。
同じ風。
同じ匂い。
でも、もう隣には誰もいない。
「……なあ、マリア」
答えが返ってこないことは分かっている。
それでも、声に出さずにはいられなかった。
ダイチは、返事のない木を見上げ続けた。




