過去編:壊れた彼女6
マリアが小学校に入学したばかりの頃、世界はとても速かった。
黒板の文字も、先生の声も、クラスメイトの動きも、全部が速すぎた。
「マリア、また遅い!」
教室に響く声に、肩がびくりと揺れる。
急いで立ち上がるけれど、椅子の脚が床に引っかかって音を立てる。
それだけで、周りから小さな笑いが漏れた。
顔が熱くなる。
先生の怒った声が遠くから聞こえる。
けれど、どうしていいかわからない。
運動の時間も同じだった。
走れば転ぶ、跳べば引っかかる。
ボールは思った方向に飛ばない。
「ちゃんとやりなさい!」
怒鳴られるたびに、体が固まる。
ちゃんと、って何だろう。
どうすれば、ちゃんとできるのだろう。
勉強も、うまくいかなかった。
ノートをとるのが遅い。
問題を読むのに時間がかかる。
気づけば、みんなが次のページに進んでいる。
「何度言えばわかるの?」
その言葉が、胸に刺さる。
何度も聞いているのに、わからない自分が、どうしようもなく恥ずかしかった。
休み時間。
マリアの席の周りには、いつも少しだけ空間があった。
誰も近づかないわけではない。
ただ、自然と避けられているような距離。
「どんくさいよね〜」
「一緒にいると遅れるし」
そんな言葉が、耳に入る。
聞こえないふりをするしかなかった。
家に帰っても、居場所はなかった。
「今日も怒られたの?」
母の声は冷たかった。
「本当に要領が悪いわね」
父はため息をつく。
「こんなんじゃ先が思いやられるな」
その言葉は、静かに、けれど確実に心に沈んでいく。
ある朝、マリアは玄関で立ち止まった。
ランドセルの重さが、やけに肩に食い込む。
「……学校、行きたくない」
消えてしまいそうなほど、弱い声。
次の瞬間、強い力で母親に背中を押された。
「ずる休みなんて世間体が悪い!ふざけないで!」
扉が開き、外の空気が流れ込む。
バランスを崩して、靴のまま一歩、外へ出る。
そのまま振り返ると、もう扉は閉まっていた。
しばらく、その場に立ち尽くした。
何も考えられなかった。
ただ、胸の奥に、ひとつの感覚だけが残っていた。
――普通じゃないと、だめなんだ。
それは言葉というより、理解だった。
いい子でなければ、ここにはいられない。
普通でなければ、生きていてはいけない。
同時に、もうひとつのことにも気づいてしまった。
誰も助けてくれない。
学校でも、家でも。
どこにも、手を伸ばしてくれる人はいない。
なら、どうすればいいのか。
答えは、ひとつしかなかった。
「誰にも、頼らない」
そう決めると、不思議と頑張れる気がした。
それしか方法がないのだと、信じた。
涙は出なかった。
出しても意味がないと、もう知ってしまったから。
その代わりに、胸の奥に冷たいものが沈んでいく。
重くて、冷たくて、暗い感覚。
「消えたい」
その言葉が、初めてはっきりと形になった。
それでも、マリアは歩き出す。
学校へ向かって。
足は重いまま、心は空っぽのまま。
――普通になる。
それが、唯一の生きる方法だった。
たとえどれだけ苦しくても。
どれだけ自分を削ることになっても。
これから、どれほどの努力が必要なのかはわからない。
どれだけ痛むのかも、想像できない。
けれど、それでもやるしかなかった。
朝の空気は冷たくて、胸が少しだけ痛んだ。
その痛みを抱えたまま、彼女は「普通」へと向かって歩き続ける。
血が滲む努力の、その始まりの日だった。




