過去編:壊れた彼女5
マリアは、静かに壊れていった。
けれど、その壊れ方は誰の目にも映らなかった。
小学校高学年。
マリアは「大人しくて優秀な生徒」として知られていた。
授業中はいつも姿勢よく座り、教師の話に丁寧に耳を傾ける。
指名されれば、迷いなく正解を答える。
テストは満点が当たり前で、提出物は一つも遅れない。
清掃の時間になれば、誰よりも真剣に床を磨く。
ほうきの音も、雑巾の冷たさも。
すべてが、逃げ場のない現実を押し込めていくようだった。
「マリアさんは本当に素晴らしいですね」
教師はそう言って、何度も彼女を褒めた。
クラスメイトたちも頷く。
「すごいよね」
「真面目で偉い」
その言葉の中で、マリアは微笑む。
それが正しい反応だと、もう知っていた。
運動は得意ではなかった。
それでも、最後まで走る。
息が切れて、足が重くなっても、転びそうになっても、立ち止まらない。
「頑張って!」
「もう少し!」
応援の声が飛ぶ。
その声に応えるように、マリアは前を向く。
――頑張らなきゃ。
それは、命令のように心に響いていた。
やがてマリアは、表彰された。
全校生徒の前で名前を呼ばれ、壇上に上がる。
「模範的な生徒として――」
大きな拍手が響く。
その音は、どこか遠くから聞こえるようだった。
かつてのマリアは、もういなかった。
落ちこぼれと呼ばれていた過去は、誰の記憶からも消えていた。
今そこにいるのは、「特別に優秀な子」だった。
誰もが認める、間違いのない存在として。
家庭訪問の日。
担任の教師が、穏やかな声で言う。
「本当に素晴らしいお子さんです。努力もできて、周囲への気配りもできる」
両親は嬉しそうに顔を見合わせる。
「そんなにですか」
「いやあ、誇らしいですね」
その笑顔は、どこか浮かれていた。
まるで、自分たちが褒められているかのように。
マリアはその場で、静かに座っていた。
会話の中に、自分はいないような気がした。
話題の中心にいるはずなのに、どこにも存在していないような感覚。
夜、部屋に戻ると、音が消える。
静寂が広がる。
その中で、ようやく何も演じなくてよくなる。
けれど、その代わりに、別のものが浮かび上がる。
胸の奥が、じわりと痛む。
まるで内側から裂けているような感覚。
マリアの心の中では、血が流れていた。
誰にも見えない場所で。
誰にも気づかれないまま。
静かに、絶え間なく。
「消えたい」
その言葉は、もう珍しいものではなかった。
毎日、同じように浮かぶ。
冷たくて、静かで、確かな感覚。
けれど、朝になれば起きる。
制服を着て、学校へ行く。
そしてまた、完璧な「マリア」を演じる。
誰も助けてはくれない世界だった。
だからマリアは、今日も頑張る。
痛みを抱えたまま。
息苦しさに押し潰されそうになりながら。
笑って、頷いて、正解を答える。
そのすべてが、少しずつ自分を削っていることを知りながら。
それでも止まらない。
止まれない。
止まった瞬間に、「優秀なマリア」は消えてしまうから。
静かに、確実に。
マリアは今日も、壊れ続けている。
誰にも知られないまま。




