過去編:壊れた彼女3
マリアは、ずっと「普通」でいようとしていた。
朝起きて、学校へ行き、誰かと笑う。
そんな当たり前を、当たり前だと思える人間に。
けれど現実の彼女は違った。
目を覚ますたびに、胸の奥に黒い霧が溜まっている。
理由もなく重く、息をするだけで疲れてしまう。
それでも、誰にも言えなかった。
「うつ病は甘えだ」
「社会に適応できない人間の言い訳だ」
両親は、そういう言葉を何の躊躇もなく口にする人たちだった。
だからマリアは、自分の中にあるものに名前をつけることすら許されなかった。
彼女は勉強した。
ただひたすらに。
ノートに文字を書き続け、問題を解き続け、夜が明けても机に向かった。
眠れない夜は、そのまま勉強に変えた。
眠れないことさえ、無駄にしたくなかった。
指先にはいつもシャーペンの黒い汚れが残っていた。
「普通になりたい」
その願いだけを支えにしていた。
やがてマリアは、とても偏差値の高い高校に合格した。
合格発表の日、家はまるで祭りのようだった。
「さすが私たちの娘ね」
「やっぱり他の子とは違うな、優秀だ」
両親は満面の笑みでそう言い、親戚や知人に電話をかけ、自慢話を繰り返した。
マリアは、その中心に立っていた。
祝福の輪の中で、笑顔を作りながら。
けれど心の中で、彼女ははっきりと理解していた。
(結果がなければ、私はここにいられない)
もし平均以下だったら。
もし「普通」でなかったら。
――この人たちは、同じように笑ってくれただろうか。
答えは、考えるまでもなかった。
高校生活は、周囲から見れば順調だった。
成績は上位。
教師からの評価も高い。
友人も、それなりにいた。
「マリア、今日カラオケ行こうよ」
「……カラオケ、初めて」
「マジ!?絶滅危惧種じゃん!」
「マリアってたまにズレてるっていうか、天然だよね」
「そうかな」
(おかしなことを、言ってしまった)
心の中では命綱なしの綱渡りをしている気分で、マリアは笑う。
皆と同じように笑っているはずなのに、一人だけ落下しないことに必死だった。
マリアの内側は何も変わらなかった。
むしろ、より空虚になっていった。
笑うタイミング、頷く回数、言葉の選び方。
すべてを計算して、間違えないように振る舞う。
まるで誰かに操られているかのように、自分を動かす。
ここで笑う。
ここで黙る。
ここで頷く。
それは、自分の意思ではなかった。
ただの再現だった。
ある日の帰り道、夕焼けが街を赤く染めていた。
クラスメイトたちは楽しそうに話しながら歩いている。
誰かが笑い、誰かがそれに応える。
マリアも、その中にいた。
同じように笑い、同じように歩いていた。
けれどふと、足が止まりそうになった。
(……私は、誰?)
声には出さなかった。
ただ胸の内には、埋まることのない空洞が存在していた。
家に帰ると、いつもの空気が待っている。
「次のテストも期待してるからね」
「あなたならできるでしょ」
それは励ましではなく、普通でいる条件だった。
マリアは静かに頷いた。
夜、部屋の中で一人になると、ようやく何も演じなくてよくなる。
けれど同時に、自分が空っぽであることを突きつけられる。
楽しい瞬間は、たぶんあった。
でも、それを思い出せなかった。
ただ、役割だけがある。
「普通」でいるために作られた自分。
それは、糸で操られる人形のようだった。
誰かの期待に応えるために動き、誰かの評価によって存在を許される。
糸を切れば、きっと倒れる。
けれど、糸がある限り、それは「生きている」と見なされる。
だからマリアは今日も動く。
朝になれば起きて、制服に袖を通し、同じ道を歩く。
心がどこにあるのか分からなくても。
それでも、止まることはできない。
止まった瞬間に、「普通」でなくなることを知っているから。
誰にも助けを求めない。
求められない。
求めても意味がないと、知っている。
鏡の前で笑顔を作る。
それが、マリアにできる唯一の「普通」だった。




