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三十八歳、触れないまま恋をする〜重すぎる愛と、静かな恋の間で~  作者: ail38


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過去編:壊れた彼女2

マリアは、いつも正しく動く人形だった。


間違えないように、期待を裏切らないように、誰かに褒められる形をなぞるように生きてきた。


学校では、それが「優等生」という名前で呼ばれていた。


授業中、教師の問いに迷いなく答える。

課題は期限より早く提出する。

テストでは常に上位。

ノートは整い、字は丁寧で、態度も模範的。


気難しいと評判の教師でさえ、彼女の名前を出した。


「マリアさんを見習って、皆さんも努力するように」


教室にざわめきが広がる中で、マリアはただ小さく頭を下げた。

嬉しいとは思わなかった。

ただ、(これでいい)と確認するだけだった。


放課後、クラスメイトが声をかけてくる。


「マリアってほんとすごいよね」

「絶対いい大学行くんでしょ?」


その言葉に、彼女は微笑んで頷く。

それが、求められている反応だから。


本当は、その先のことなど、何も考えられなかった。

未来という言葉は、どこか他人のもののように遠かった。


進路指導の時期が来た。

教師たちは当然のように、難関大学の名前を並べた。


「あなたなら狙える」

「むしろ挑戦しないのはもったいない」


プリントに書かれた大学名が、白い紙の上で浮かんで見えた。


マリアはそれを見つめながら、静かに思った。

――行きたい。

その感情は、久しぶりに自分の内側から生まれたものだった。


誰かに与えられたものではなく、自分の中に確かにあった願い。


けれど、その願いは、家に持ち帰った瞬間に形を失った。


「大学は無理だ」


父の言葉は、あまりにもあっさりとしていた。


理由を聞くまでもなかった。

家の中の空気が、それを物語っていた。


姉がいなくなってから、すべてが変わってしまった。

ある日突然、姉は恋人と姿を消した。

残されたのは、多額の借金だけだった。

それはとても重く、確実に家族を締め付けていた。


「あなたには働いてもらうしかない」


母はそう言った。

責める口調ではなかった。

むしろ当然のことのように、淡々と続ける。


「家族なんだから、支え合うのが当たり前でしょ」


その言葉に、反論は浮かばなかった。


進路希望調査の紙に、「就職」と書いた。


ペン先が紙に触れた瞬間、何かがすっと消えた気がした。

夢とか、希望とか、そういう名前のつくもの。


教師も友人も驚いた。


「まだ間に合うよ」


「もったいないよ」


「なんで?」


マリアは、いつものように微笑んだ。


「家庭の事情で」


それ以上は言わなかった。

言えるはずもなかった。


卒業式の日。


校舎の窓から差し込む光が、やけにまぶしかった。


大学へ進む友人たちが、未来の話をしている。

新しい生活、知らない街、やりたいこと。


そのどれもが、マリアには関係のない世界だった。


(知らない、私には必要ない……)


もしかしたら泣くかもしれない、と思って持ってきたハンカチの出番はなかった。


春になると、マリアは地元の企業で働き始めた。


給料日には、封筒をそのまま両親に渡す。


「助かるよ」


その一言を聞くと、少しだけ安心した。

自分にもまだ価値があるのだと、思えたから。

それで役割は完了する。


夜、部屋の中で一人になる。

静寂の中で、ようやく何も演じなくてよくなる。


けれどそこにあるのは、やはり空っぽの自分だった。


大学に行きたかった気持ち。

学びたかったこと。

出会えたかもしれない人たち。


すべてが、ぼんやりとした影のように浮かんでは消える。


マリアは思う。

自分はいつから、こうなったのだろう。

いや、最初からだったのかもしれない。


誰かの期待に応え、誰かの都合に合わせて動く。

糸で操られた人形のように。


それでも、糸は切れない。

切ってしまえば、きっと何も残らないから。


だから今日も、マリアは動く。

ただ、求められる形のままに。


他に生き方を、知らなかったから。

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